「悠鶴に連絡ついたか?」
「─いいえ」
新宿区、久米法律事務所。
行儀悪くデスクに腰掛けて一服していた沢崎の質問に、槇依は否定を返した。
「圏外です」
表情を崩さず簡潔に報告する。
「…圏外?」
沢崎が眉を寄せた。
吸っていた煙草を灰皿に押し付け、「ンな訳あるか」と槇依を見据える。
槇依は頷いた。
「はい。先手を打たれました」
沢崎が舌打ちをした。
「地味に厄介やな。もう2〜3日はグダグダしとると思ったが」
左手で無造作に顎髭を擦る。思考を纏める時の癖だった。
「──現場に切れる奴が出張ってきたか。ヴェルは?」
「現在交戦中です。撤退させて呼び戻しても、悠鶴ちゃんより先に着くかどうかは賭けになります」
「勝てん博打は好かん」
槇依の見解を、沢崎は一言で切り捨てた。
「何しても構わん。こじ開けろ」
主語も目的語もない、雑極まりない指示に、槇依は慣れた動作で頷いた。
「了解しました。3分だけ、応接室をお借りします。」
「最上の結界は、誰も知らぬ結界」
槇依は応接室に飾られているゼラニウムの鉢植えに手を伸ばした。
歌うように唇に乗せた言葉は、結界を扱う術者であれば当然弁えていなければならぬ常識である。
だが、この結界は違う。
これ見よがしに撒き散らされる存在の圧力は、最早物理的な巨大建築のそれと大差が無い。
雑踏で要塞を築くにも等しい非常識を、槇依は挑発と理解した。
「そぅ。それならば──」
神々すら羨む美貌が月の様に微笑う。
「後悔させてあげる」
東京の緑は滅び去って久しい。
誤謬である。
無論多くはないが、高度に文明化された先端都市というイメージ──それ自体一種の共同幻想と言えなくもないが──を軽く揺さぶる程度には、人工物でない緑も生き残っている。
(いずれは、滅びゆくものなのでしょうね)
寂寥を仕舞い込んで、自我の鎖を解き放つ。
ほんの少し。
瞬間、世界が切り替わった。
概念が物理を侵食し、法則の王位を簒奪する。
時間も距離も悉く曖昧。流れ込む情報は言語化不能。同化への欲求は睡魔の誘いに等しい。
ともすれば、暖かな波に溶かされかねない自我を、
(紅茶に落とした角砂糖のよう)
と嘲って保存する。
顧みれば、この身は世界の端末にして感覚器官。
目を凝らすまでもない。
複雑精緻に組み上げられた巨大な結界式は、例えるなら草原に孤影を落とす大伽藍。
構築過程で隠蔽術式の大半を削除し、精度と強度のみを追求した結果、外的干渉に対する遮断性能はほぼ無謬に等しい。
無論、魔術であれ結界であれ、世界の内側で超自然の諸力を用いて干渉を行う限り、反作用として世界による修正を招く事は必然となるが、結界式自体が桁外れの強度を誇るだけに、消滅には相応の時間を要するだろう。
そして、それを待つ時間は無い。
(──何してもいい。こじ開けろ)
大雑把にも程がある指示は、状況の切迫度を如実に示す証左でもある。
「何をしても、と言ったわ。貴方は」
鎖を少し、また少しと解いていく。暖かな水の中に漂うような感覚。
自我の欠片が溶解し、世界に同化する。
端末から中枢へ。情報が世界に拡散し、修正は加速する。
「だから、溶け合って戻れなくなったとしたら」
緩め過ぎないように鎖を引き絞る。強い煙草の香りがしたのは、きっと幻覚のようなものなのだろう。
「貴方のせいよ、きっと」
祈る様に目を閉じ、そっ、と手を差し伸べた。
3分後。
沢崎は携帯電話の発信キーを迷わず押した。
発信先の登録名は、『
3コールの後、ハイと聞き慣れた声が応じる。
名乗りも前置きも説明も全て省き、沢崎は要点のみを一息で伝え切った。
「先制された。何してでも、身柄は渡すな。敵わん思たら、抱えてケツ捲れ」
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