「李桃」
呼び掛けると、少女はゆっくりと振り返った。
班礼は瞬間、どきりとした。
彼女の顔から、表情が消えているように見えたのだ。
だがそれは刹那だけで、次の瞬間にはいつもの花のような笑顔が咲いた。
「なあに、班礼」
それは、あまりにも痛々しい様であった。
完璧に繕われた表情は、大概の者には能天気な笑い顔にしか見えぬであろう。
上塗りされた元の表情を見抜ける者は、今となっては班礼一人となってしまった。
「─花を愛でていたのですか?」
班礼は李桃の手元に目をやった。
彼の足もとにも同じものが咲いている。
彼らを取り囲むように咲き誇る花は、彼と彼女にとって特別な意味を持つものであった。
『では、名をつけてやろうではないか』
彼は、そう言って胸を張った。
あまりにも誇らしいその様に、幼子は咲くような笑顔を見せた。
李桃からの答えは、なかった。
ただじっと花を見つめる様に、班礼は今よりも幾回り小さい背中を重ね─そして気付いた。
─彼女が、誰を待っているのかを。
「これから、どうしますか?」
用意していた問いを投げた。
彼女が見ているのと同じ花が、彼女の頭の上で小さく揺れた。
「…どうしようかな」
呟かれた答えは、花たちに吸い取られるようであった。
「李桃は、どうしたいですか?」
再度の問い。
横顔を向けたまま、彼女は何かを考えているようだった。
笑顔とはほど遠い表情。
班礼は、主の言葉を思い出した。
─自分がいなくなったら
やつれた顔を向けて、彼は初めてそう言った。
病床に伏せりながらも、決して後ろ向きな言葉を吐かなかった主の、それは初めての弱音であった。
班礼は、ただじっと耳を傾けた。
─笑顔で、過ごせるよう
名家の長が最期に気にかけたのは、憎き敵でも家の存続でもなく、
直系の子でないただ一人の娘の行く末であった。
「班礼はどうするの?」
戸惑いがちに、投げ返された問い。
班礼は、李桃と目線を合わせた。
「貴女が穏やかに暮らせるよう。殿から、仰せつかっております」
李桃の大きな双眸が揺れた。
「本初さまが…?」
「ええ」
班礼は頷いた。
「父親らしい事を何もしてやれなかった、と。言っておられましたよ」
李桃は、袁紹の血を分けた子ではない。
彼女の母親が袁家末席の者であった事は確かだが、本来ならば当主自ら引き取る責はない。
彼女を引き取るだけの何が主にあったのか、班礼は正確なところは知らない。
だが、彼が彼女を真の娘同様に扱っていた事は周知の事実だ。
当家に迎えられたばかりの頃。
親を失った暗さを背負った少女に、主は花の名をつけようと言った。
それを聞いた少女は、ここに来て初めての、笑顔を見せた。
だから少女にとっても、彼は替えの利かぬ存在であった。
─この笑顔の方が、よほど花のようだ。
あの時、班礼はそう思った。
李桃が武人の道を歩み始めたのは、それから直ぐの事であった。
袁紹も内外の責務に常に追われ、今となって思い出せば、彼らの親子らしい交流といえばあの一件くらいなものだったように思う。
「──李桃は」
ぽつり、と。
少女の口から、言葉が漏れた。
「李桃は、本初さまのために戦うのが、一番幸せで。一番、嬉しかったんだよ」
「本初様は、もういないのですよ」
少女の眉が、八の字に下がった。
ちくりと胸に痛みが奔ったが、班礼には事実を述べる以外の処方など無かった。
「本初さま、いないの…?」
震える声。
「はい」
少女は、俯いて小さな手を花へ伸ばした。
「でも。ここでこうしてると──帰ってくるような、気がして」
それは解っていた。
彼女がここにこうしているのは、あの時のように─ふいに、名を呼ばれやしないかと。
「殿は、もう戻っては来られません」
突きつける現実。
李桃が、潤んだ瞳をこちらへ向けた。
「…なんか、班礼今日はいじわる」
抗議するように眉を寄せる。
班礼は小さく苦笑した。
「─そうですね」
「─班礼は…どうしたい?」
座っていても頭一つ分高い班礼を見上げて。
確かめるように、李桃が問うた。
彼女の聞きたい事は、班礼にも解った。
袁紹の遺言を抜きにした、班礼自身の思い。
先程班礼が投げた問いと、それは同じものであった。
「…仕えるべき主を失ってしまいましたからね。仙人にでもなろうかと」
冗談ともつかぬ言葉を、しかし李桃は笑い飛ばす事はしなかった。
「班礼、軍師やめちゃうの?」
班礼は苦笑した。切れ長の瞳に、僅かに虚ろが映る。
「私はね、夢に敗れてしまったのですよ」
戦に涙した。
貧困に嘆いた。
地獄のような乱世の先には、三つの可能性が用意されていた。
──だが。
若き班礼には、そのうちどれに転んでも、天下に安寧が得られるようには思えなかった。
「魏の曹操。蜀の劉備。呉の孫権」
李桃は、じっと班礼の言葉に耳を傾けた。
「各々掲げる理想は異なれど──誰が天下を取ろうが、新たな争いは起こるでしょう」
曹操の覇。
劉備の人徳。
孫権の勇。
この荒れた世を誰が一時治めたとしても、新しき火種が燻るのは班礼には自明の理だった。
だから班礼は、悩みながらも絶望しかけていた。
その時だった。
彼が、袁本初と出会ったのは。
袁紹は、先の三つのうちどれも、持っていなかった。
ただ全てを受け入れてしまいそうなほど大きな器のみが、そこにあった。
─空っぽの大器。
この男の元にならば、天下は集結するのではないか。
班礼は、空っぽの袁紹に夢を賭けた。
「我が智謀は、ひとえに天下安寧のため在ったもの。新しき火種を支える気になど、なれません」
「─袁家の軍師も、やめちゃうの?」
李桃が、細い首を傾げた。
班礼は、その瞳を見据え─きっぱりと。
「私が仕えていたのは袁本初殿であり、袁家ではありません」
李桃の瞳が、大きく開き─ひとつ、瞬きをした。
「─そもそも。殿が身罷られたこの大事に…よりにもよって醜い内輪揉めを始めるような方々の元に、つく気など到底起きませんね」
腕を組み、鼻で笑い飛ばす。
袁紹が身罷るや、彼の息子たちは当主争いを始めた。
跡継ぎを明言しなかった主に責がないとは言わぬ。だが息子たちの争い様は、誰一人として、かの父の器に届くとは世辞にも言い難い情景であった。
班礼が夢を賭け、付き従ってきたのは、袁家という家名ではなく、袁本初その人。
後のことを告げずに主が逝ってしまった今となっては、袁家に果たす義理もなかった。
「─ですから。今はこの身はただ、殿の最後の命を果たすためにあるのです」
そう言って、悪戯っぽく微笑んだ班礼に。
「…─うん」
李桃は、袁紹が身罷ってから初めての、偽りでない笑顔を返した。
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史実通りに袁紹が没したとして、その後2人はどうするのだろうと考えたらこんな感じになったよif話。
この漫画と微妙に繋がってるような気がする。
我が家では珍しいシリアス風味ですが、基本はウチの袁家はサ○エさん時空のコメディタッチでお送りしております。
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