「ふー…」
陽の落ちかけた空を仰いで、息を吐き出した。
平日のこの時間帯、海浜公園には人通りも比較的少ない。
広い敷地、河のせせらぎ、向こうに見える冬木大橋。
ゆったりとベンチに腰掛けて、景色を眺めながらパックのカフェオレ(¥95)を飲む。
仕事帰りのささやかな、憩いの時間だった。
─今日までは。
おつかれsummer
「よう」
「っひゃあ!」
背後から聞こえた声と同時に、頬にひやりとした感覚。思わず声を上げる。
振り向くと、ニヤついたアロハシャツの青年が立っていた。
「悪ィ。驚かせたか?」
「含み笑いしながら謝らないで下さい」
「いや、そんなに驚くと思わなかったモンでな。ホント面白いな、アンタ」
「出会い頭に貶すの、やめて下さい」
「褒めてンだって」
抗議を意に介した様子もなく、青年は目を細めた。
「仕事帰りか?」
「ええ。そちらも?」
「まあな。ホレ、お疲れさん──と思ったけど、被っちまったか」
差し出された右手には、缶コーヒー。ああ、さっきの冷たいのはコレか。と得心する。
裏目ったか、と呟く彼の目線は、私の手元に注がれている。
─まあ、カフェオレ好きですし。
「自分で飲めばいいじゃないですか」
「俺のは俺のでちゃんとあるの」
左手に、もう一本の缶を掲げてみせるアロハシャツの青年。
違和感を感じたけれど、とりあえず追及は後回しにする事にした。
この青年の事は苦手だけど、好意を無下にするのはもっと好きではない。
私は無言でストローを口に含むと、残りのカフェオレを一気に飲み干した。
べこ、という音を立ててパックが歪む。
「─イタダキマス」
「ん」
何故だか満足げに見下ろす彼から、缶を受け取る。
一瞬指が触れ合って、初めて彼の手を意識した。
少しごつごつしているけれど、長くて綺麗な指。彼の事は苦手だけど、少しだけ羨ましい。
「はー、今日もよく働いた」
いつの間にか、青年は私の隣に腰掛けていた。
大人ひとり分ギリギリのスペース。そこに座ってしまったものは仕方ないので、私は少し腰をずらした。
「離れる事ねえだろ、」
「密着する必要がありません。折角なら広く使いましょう、お互いに」
「つれねえな」
気を利かせたのに文句を言われては心外も甚だしいが、いつもの軽口と流す事にする。
というか、この青年に関しては、一事が万事この調子なものだから、一々気にしていたら身が持たない。
現に今も、いつの間に開けたのか自分の缶を、ごくごくといい音を立てながら豪快に飲み干している。
手元に意識を移すと、頂いた缶コーヒーは、最近の私のお気に入りジャストヒット。
違和感が更に増す。
プルタブを開けて口をつける。美味しい。
隣の彼は、既にコーヒーを飲み干して、仰向けに息を吐いているところだった。
「──あの」
とりあえず違和感が飽和した辺りで、問い掛ける。
だらしなく手足を広げた格好のままで、あ?と彼がこちらを向いた。
「─……何で、私がここに居るって解ったんですか」
彼の顔を見て問う勇気は、なかった。
手元に視線を落としたまま、冷や汗混じりに私は問うた。
ふ、と彼が息を漏らすのが聞こえた。
「何となく、な。昔から、イイ女と不吉なモンには鼻が利くんだよ」
「言うに事欠いて不吉呼ばわりですか」
流石に聞き捨てならず、憮然と言い返すと。
「は?─馬鹿、『イイ女』の方だ」
─何も出ませんよ。
しまった。あまりに不意打ちだったから、咄嗟に言い返せなかった。
今更替えの言葉も見つからず沈黙していると、直ぐ下に彼の顔があった。
「─はぁん?さてはアンタ、褒められ慣れてねえな?」
「だったら何です」
ぐるり、と首を反転させる。
「いや、意外だなーと。モテるかと思ったんだけどな」
「生憎と、モテた覚えはないですね」
「─あぁ、そりゃそうか。折角男が言い寄っても、あの調子じゃあな」
何をどう解釈したのか解らないが、青年は一人勝手に納得したようだった。
反論する気も起きず、私は黙って缶コーヒーに口をつけた。
お気に入りを飲み干したところで、私は立ち上がった。
「ランサーさん」
「ん?」
腰掛けたままの彼が、こちらを見上げる。
何だろう。この位置関係、何か──落ち着かない。
内心を悟られぬように、深々と頭を下げた。
「御馳走様でした」
「畏まるなよ。俺との仲だろ?」
どんな仲だ、とツッコミたかったが、大人なので耐えた。
代わりに、違和感の解消に努める。
「─あの、何でコレ、選んだんですか?」
空になった缶を指差して問う。首を傾げるアロハシャツの青年。
「ん?気に入らなかったか?」
「いえ、むしろ好きですけど…」
「だよな?」
満足げに笑う青年。
その様子に、これ以上の追及を諦めた。
多分、どうせまた「何となく」で済ませられるような気がする。
私の理解の及ばないような、勘と思考と経験とやらで動くのが、ナンパ師というものなのだろう。
「ところでさ」
「はい?」
「何で立ってンの?」
首を傾げてこちらを見上げる、青年。
「帰ろうと思ってるからですが」
「あそ」
短く頷くと、青年はよっこらせ、とオヤジ臭い掛け声と共に立ち上がった。
「んじゃ、行くか」
「行くって、何処に」
「帰るんだろ?送ってくって」
何故か手を差し出すアロハシャツの青年。
「結構ですよ。まだ陽も落ち切ってないですし」
「いや、暗い明るいは関係ねえんだけどな?」
「フェミニストなんですね」
「そうでもねえよ。気に入った女にしかしねえからな」
反射的な感情が表情に出るのを、抑え切れなかった。
「オイオイ、そんな嫌そうな顔する事ねえだろが。ここは頬染めて喜ぶトコだろ?」
「どこの世界に、玩具にされて喜ぶ人間が居るって言うんです」
「オモチャって。案外とヤラシイな、アンタ」
「やらしいのは貴方の脳味噌と声と手と存在そのものだと思いますけど」
一息で言い切ると、青年は軽く首を傾げた。
「─もしかして、未だ根に持ってンのか?」
「ええ、まあ」
思い出したくもない記憶が蘇る。
今の私は大層な渋面なのだろうな、と思ったが、最早抑える気も起きない。
「あんなの、初対面のアイサツ代わりだろ?」
「西洋の習慣を考慮に入れても、明らかに挨拶の範疇を越えてたと思います」
「…存外、男慣れしてねえのか?」
「貴方みたいな人とお近づきになった事がないだけです」
ええ、『そういうタイプ』は意図的に避けてましたから、これまで。
だから本来は貴方も避けたいんですけどね、と視線に込めてみる。
が、矢張り毛ほども意に介す様子はない。
「んじゃ、俺がのハジメテって訳だ」
「意味が解りません」
「心配すんなって。優しくするから」
「何をですか」
「何ってオマエ、こんなトコで言わせる気か?」
─ああ、この人のうみそ沸いてるんだなあ。
そう思う事にして、さっさと帰ろうと思っ──たけれど、何故か体が動かない。
「仕方ねえな。今から教えてやるか」
動けないのは、腰をがっちりと抱かれている所為だと、ようやく気付いた。
─だから、いつの間に…?
「離して下さい。往来ですよ?」
それ以前の問題なのだが、咄嗟に出てきた言葉がこれなのだから仕方ない。
青年はぐるりと周囲を見渡し、不思議そうに私を見下ろした。
「他の奴らもやってるぜ?」
「あの人たちはカップルだからいいんです」
「なら問題ねえ。俺たちもカップルだろ?」
「違いますし」
「違うのか?」
「違いますね」
「じゃ今からカップルになろーぜ、?」
「全力でお断りします」
ぴしゃりと拒絶する。と、青年の目が、すうと細められた。
得も知れぬ悪寒を感じ後退しようとしたが、腰に回された腕に阻まれる。抵抗空しく引き寄せられて、密着する形になった。
至近距離で、じいと見つめる赤い瞳。獰猛に歪められた口元。
─そして、とどめの一言。
「──んじゃ、全力で狩るとすっか」
「狩るって、な…──やめて離して離れてーー!!」
カップルで賑わい始めた夜の河川敷に、助けを求められる筈もなく。
やっとの思いで、槍兵の魔手から逃れるまでの過程は──…これ以上、語りたくない。
…一点だけ。
私の数少ない憩いの場の一つは、こうして奪われた。
+++
080910