「へえ。雰囲気いいね」
「でしょ?ちょっと値が張るけど、気に入ってるんだよね」
窓際のボックス席に向かい合い、他愛無い会話を交わす。
日帰り出張の帰り。お茶でも飲んで帰ろうという話になり、普段は一人で訪れる喫茶店に同僚と二人で入った。
珈琲派の私だが、紅茶専門店と看板を掲げるここは、新都では一番のお気に入りだった。もっとも、最近はここに来る機会がなく、久々の来店だ。
同僚の彼は、満足げな面持ちで、物珍しそうに店内を眺めている。
お気に入りの店をあっさり他人に紹介する私の癖は、いいところでもあり勿体ないところでもあると、いつだったか凛ちゃんに言われた事を思い出した。
「いらっしゃいませ」
ことり、とメニュー表がテーブルに置かれた。
聞き覚えのある声に顔を上げたのは無意識の動作だった。とは言え、昨今この時ほど自分の迂闊さを呪った事はない。
「──ご注文は?」
営業スマイルの端に人の悪い笑みを乗せた青い髪の青年が、こちらを見下ろしていた。





独占欲





「えーと…じゃあ、俺はダージリンを」
「畏まりました。─そちらのお客様は?」
「………アールグレイを…」
沈黙する私に、態々投げ掛けられる問い。メニュー表にひたすら目を落とし、震える声で辛うじて答える。背中まで冷や汗が伝うのを、確かに感じた。
「少々お待ち下さいませ」
普段と違う、穏やかな調子の声。優雅な仕草で一礼すると、青い髪のウエイターはカウンターへ踵を返した。後姿を振り返る気には、とてもじゃないけどなれない。
へえ、と向かいの彼が溜め息を漏らした。
「映画俳優みたいな人だな。この辺は外国人も多いけど、あそこまでってのはそうそう見ないよね」
「─…そう、だね…」
「あっ。もしかして、彼狙いとか?」
「…いや…、今日初めて見たから…」
そうなんだ、と彼はカウンターを見遣った。嘘は言ってない。ここで会ったのは初めてだ。
偶然、という言葉を呪いたくなった。
新都でバイトをしているとは聞いていた。聞いてはいたけど、まさか私の行きつけだったなんて、聞いてない。いや、興味ないからと態々聞かなかったのは、他ならぬ私なのだけど。
こんな事なら、苦手な社交辞令を使ってでも一応聞いておくべきだったかも知れない。詮無い後悔などしてみる。
他愛無い会話は続いたが、どこか上の空で返していた。─カウンターの方から感じる視線が、背中に突き刺さるように痛かったのだ。

「お待たせ致しました」
二組のティーセットが、静かにテーブルに並べられる。
青い髪のウェイターは、慣れた動作でポットから赤茶色の液体を注いだ。高い位置から零れる事なく注がれる様を見て、バイトでも流石だな、などと思わず心中で溜め息を漏らす。
「──それと」
ことり、と目の前に中皿が置かれた。上品にデコレーションされたフルーツタルトが乗っている。
「こちらは、お客様へのサービスです」
「───!!」
流し目をこちらに送った目元と口元が、それはもう愉快そうに笑っている。いつも私をからかって遊ぶときの、あの笑みだ。
─ごゆっくりどうぞ。
完璧に慇懃な態度で述べたウェイターは、去り際にさり気なく私と目を合わせ、もう一度笑った。
─絶対わざとだ。
震える手でカップを取る。しかし何だってあの青年は毎度毎度、私の息つく場所に狙ったように現れるのか。目の前の彼は、突然のサービス品に面食らったようで、目を丸くして私の手元を見ている。
今日何かあるの?と聞かれたので、レディースデーでもやってたのかな、なんて曖昧に答えておいた。



「本日はどうも、ご利用ありがとうございました」
小一時間ほど前に聞いた文句を掛けられたのは、冬木大橋に差し掛かったところだった。同僚と駅前で別れ、一人で帰路についた、正にその直後。どこかで見ていたのか、と思わず疑いたくなった。因みに、言葉は営業文句のそれだが、口調は普段の調子に戻っている。
「─どういたしまして」
渋々と振り返ると、ウエイター姿から普段着に着替えた青年が、背後に立っていた。
「いや、今日は驚いたぜ。何、俺に会いに来てくれた?」
「まさか、偶然よ。あそこは以前から知ってたの」
「らしいな。ま、今後ともご贔屓に」
「─どうかしら」
曖昧に答えると、何か不都合でも?と顔を覗き込んできた。
「あんなサービスして貰った後じゃ、申し訳なくて行きづらいもの」
お前の所為だ、と言うのも流石に不条理な気がして、代わりの答えを返す。
「オイオイ、普通逆だろうが。相変わらず貧乏性だな、は」
「放っといて」
呆れたように言う青年から、ふいと顔を逸らす。
「安心しな。ケーキの代金は俺がちゃんと払っといたからよ」
「は?何でそんな…」
思いがけない言葉に、思わず首を戻す。青年は目を細め、軽く肩を竦めて見せた。
「いや、何。折角知り合いが訪ねてくれて、マスターに聞くと常連だって言うじゃねえか。しかも一見っぽい連れまでご一緒と来た。店員としちゃ、また来て頂けるように、サービスの一つもしたくなるってモンだろ?」
仕事熱心なんだぜ?俺。と、片目を瞑って見せる青年。
「─だ、だったら彼の方にサービスした方が…」
「そこはそれ。美しいお嬢さんにサービスするってのは定石だろ?」
ああ言えばこう言う。駄目だ、やっぱりこの青年に口で勝てる気なんてしない。だからわざわざ避けてるって言うのに、何だってこう私に構おうとするのか。からかい甲斐があるなんて称号、貰ったところで不名誉以外の何者でもない。
言い返す言葉が見つからず押し黙っていると、ははあん。と意地の悪い声が振ってきた。

「それとも、もしかしてお邪魔だったか?」
─ああ、やっぱり。
こんな事になる気がしたから、この青年には見られたくなかったのだ。思わず額に手を当て、私は深く溜め息を吐いた。
「─そんなんじゃない。彼はただの同僚」
「ほう?」
「悪いけど、そちらが喜びそうな話題は提供出来ないわよ」
努めて素っ気無く返すと、いやいや。と何故か嬉しそうな声が返って来た。
「俺としちゃ、その方が都合がいいんだけどな」
「──何が?」
「惚れた女が男連れとあっちゃ、そりゃ面白くもねえ。ケーキ一つなんて安い手だが、軽い牽制にゃ十分だろ?」
いつもの調子で答える青年。私は本日初めて、彼の目を直視した。今のは流石に、聞き流せなかったのだ。

「あのね。『惚れた』なんて軽々しく口にしないで」
特に強固な貞操観念を持っている訳ではない。好みの問題なのだ。
彼が口説いているのが私以外の誰かならば、何も口を挟む事はなかっただろう。ただ、私は惚れたはれたを冗談に使われるのが嫌いだ。それだけの話。
「軽々しくは言ってねえよ」
「そういうのを軽々しいって言うの」
それでも飄々と返す青年に、眉を寄せて言い返す。
「どの口下げてそんな事言うのか…」
言い差した言葉は、半ばで遮られた。



声が出せない。

というか、口が開かない。

アレ、何か柔らかいものが口に触れてる?

ていうか、もしかして顎、固定されてる?

更に、後頭部も固定されてる?

いやいやまさか、でもまさか。


「───…ッ!?」


─なんて、目まぐるしく思考を巡らせては見たけど、残念ながら私も子供じゃない。
何が自分に起こってるのか、なんて、二秒もあれば把握出来る訳で。
つまりは、そう、把握した現実をどうしても受け入れたくなくて、何とか別の可能性はないか、なんて、思考で悪あがきしてみただけで…。

「──…!!」

密着する胸板を押してみるけれど、ビクともしない。
性質の悪い事に、長々と続けられる粘膜接触のお陰で、腕の力も徐々に入らなくなる。
すっかり抵抗する気力をなくした頃には、背中と腰が熱を持った両腕に押さえ付けられていた。

「──…っは、」

ようやく解放されたのは、それから更に数秒経ってからだった。しかも、解放されたのは口だけというこの状況。
「─この口だけど?」
至近距離で見上げた顔は、やっぱり意地悪く笑っていた。
「あ、な…」
思いっ切り抗議してやろうと思ったが、上手く言葉にならない。
何だ今の。いや、何だって解ってるんだけど。それにしたってあまりにも素早くて…
そこで私は、いつもギリギリで交わしていた『スキンシップ』が、それでも手心を加えられていたのだとようやく理解した。
─その気になれば、いつだって手に掛ける事が出来た。背筋を冷たいものが伝う。
「ん?──おっ」
何かを見つけたように、にやりと笑う青い狼藉者。
「腰抜けちまったか?」
「ぬ、抜けてない!」
つい、と親指で唇を掬われた。
「─可愛いな、お前」
「かっ…」
未知の単語を聞いた気分だ。そんな事言われたの、何年ぶりだった?
しかも、こんな青年から言われるなんて。本来の彼にしてみれば私なぞ小娘もいいところかも知れないが、少なくとも外見的にはそうもいかない。必然的に、私としてもそうもいかない。
目の前の狼藉者は、くすくすと楽しそうに笑っている。─これでからかってない、なんて言う方がどうかしてる。
「─ふ、ざけるにも限度があるでしょう?いい加減に…」
「だーかーら、ふざけてないって。今教えたろ?」
「今ので、何を、どう!?」
「─ったく、しょうがねえな。んじゃもう一回…」
「するなぁっ!!」


この後、士郎くんとセイバーちゃんが通りがかってくれなかったら何倍の疲労を味わったことか、なんて、想像もしたくない。その点だけは、偶然に感謝する。
二人は私の顔がいつも以上に紅い事を少し疑問に思っただけのようだったから、見つけてくれたのが遠坂主従じゃなくてこの二人というのも、感謝すべきところだろう。

言うまでもないが、これからまた暫く、私は件の喫茶店に足を運ぶ事が出来なくなる。






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080914