「あ、おかえりウェイバーくん」
小間物の買い物から帰ってきたウェイバーは、玄関先でと鉢合わせた。
丁度出掛けるところなのだろう、細身の靴を片方履いた格好で彼女が声を掛ける。
「どっか行くの?」
別に彼女の行動に興味などなかったが、つい口をついて出たのはまあ、社交辞令というやつだろう。
あちらも気軽に、ちょっと本屋まで、などと答えた。
トントン、と爪先を石畳に叩く姿は少々行儀が悪いと思ったが、敢えて口にはしない。

わざわざ一般人の家に寄生しているのは、ひとえに『都合がいいから』だ。
手間暇かけて作り上げた好条件が、壊れてしまっては溜まったものではない。
自分一人であればまだしも、あの巨漢のサーヴァントの存在は不自然度で言えばかなり高い。
未だ自然な状態を保っていられるのは、当のライダー本人の順応性の高さと、この家の住人のお人よしさに拠る。
言ってしまえば、今の状況は綱渡りの自然さなのだ。
ましての場合、あの夫婦と違って魔術的暗示をかけていない。
大体が彼女の存在自体、ウェイバーにとって全くの予想外だったのだ。綻びが生じるとしたら、この女からだろう。
ボロを出さないためには、下手に深く関わり合いにならないのが一番だ。それが、ウェイバーの方針だった。

だと、言うのに。

「あ、そういえば」
「ん?」
「イスカンダ…アレクセイさんが探してたよ」

今、この女は、何を口走りやがりましたのか。

「………は?」
せめて聞き間違いであれ、と聞き返す。
「今、何て……」
自分の耳が正常ならば、今目の前の女性は、トンデモナイ単語を口にしかけなかったか。
ウェイバーの目が、じっと彼女を見つめる。
その視線に、は、あ、と気まずそうに目を泳がせた。
互いに継ぐ言葉も見つからず、暫し沈黙が流れる。
やがて、彼女が、眉を八の字に下げた。
「……えっと、ゴメン、つい。訳あって、本名言えないんでしょう?」
その答えは、ウェイバーにとって絶望的な結果を示していた。
お爺ちゃんとお婆ちゃんの前では言わないように気をつけるから。などと、ありがたいんだかずれているんだか分らない補足をする
「じゃ、なくて。その………何で、知ってんの?」
わなわな、と指さした手が震えている。声も若干、上擦っている。
何で、なんて。
口には出してみたものの、そんなもの答えは一つしかありゃしない。
「えぇと……」
一瞬、逡巡する
その頬が染まったのを見止めたが、何故かまでは考えが至らず、ウェイバーは首を傾げた。
果たして、彼女の口から出た答えは。

「本人が、教えてくれたから…なんだけどぅわぁッ!?」
行儀とか何とか、意識する間もなく。
の言葉を最後まで聞き届けることなく、光の如き速さで横を擦り抜けるウェイバー。
加速の魔術を使った訳でもないのに、風速での横髪がふわりと凪いだ。
どたばたと、二段飛ばしで階段を駆け上がっていく。
玄関には、呆然と立ち尽くすと、脱ぎ捨てられた一足の靴が取り残された。


「おお、坊主。帰ったか」
バターン、と乱暴に開け放たれたドアを振り返った巨漢のサーヴァントが、のんびりとした口調で笑い掛ける。
「帰ったか。じゃねえぇぇッ!!」
ダン!と床を踏みつけるマスター。が、迫力はあまりない。
微かに眉を顰めたライダーにずかずかと歩み寄り、いつもとは逆の目線からぎろり、と睨みつける。
「お・ま・え・は〜〜〜〜……」
「どうした。血相変えて」
「ナニ一般人に真名バラしてんだよこの馬鹿サーヴァント!!!」
三軒向こうまで響くんではなかろーか、という大声で怒鳴るウェイバー。
ライダーは、はて、とマスターを見上げ、やがて得心がいった、とばかりに頷いた。
「おお。のことか」
「ことか。じゃねえよッ!何考えてんだ!ていうかむしろ何も考えてないのか!?」
「貴様こそ、何を今さら気にしておる。余の真名など、他の奴らには既に知れておろうに」
は一般人だろうがぁぁあ!!聖杯のセの字も!魔術のマの字も!知らないただの人間なんだぞ!?」
そんな相手に真名を名乗る事が禁忌である事くらい、この英霊とて承知していると思っていた。
そう思うと余計に腹が立ち、ますます声がヒートアップする。
「大体!この家で暮らすにあたって偽名使い始めたのは、オマエ自身じゃないか!?何統一性のない事してんだよ!?」
いつもいつもこのサーヴァントは、こちらの苦労を御破算にしかねない行動ばかりしてくれる。
嘗てないウェイバーの剣幕に、さしもの英霊も眉根を寄せてこめかみを掻いた。
「そうは言ってもなぁ…」
「何だよ!?」
納得の行く説明が出来るものならしてみやがれ、と言わんばかりのウェイバーに。

「睦言を交わす間くらいは、真の名で呼ばせたいではないか」

さらり、と。

今、このサーヴァントは。

何を……………のたまった?



───睦言。

思わず脳内で反復し、意味を確かめるウェイバー。
しかし悲しきかな、幾ら繰り返しても、彼の辞書からは同じ意味しか出てこない。


「──オマエ……彼女に何した?」
声の震え具合で言えば、先程彼女に問うた際の何倍にもなろう。
俯いて発したその問いに、半身を起こした体勢のまま、ライダーは答えた。
「子細を聞きたいと申すか?貴様、案外と野暮よのう…」
「ちッがーーうだろうがぁぁ!!」
そこに卓袱台があったなら、間違いなくひっくり返していたであろう。
髪を掻き毟らんばかりに取り乱し、ああもう!とウェイバーは頭を抱えた。

確かに、この英霊は、人生の楽しみの一つにソレを挙げていた。
挙げてはいたが、よりにもよってこんな形で行動に移すとは。
「あのな!ここはオマエのいたところとは、時代も場所も違えば、文化も当然違うんだぞ!?」
「うむ。この時代の文化も、余を楽しませてやまぬ」
「征服も略奪もするなって言ったろう!?女だって一緒だ!不用意に一般人を巻き込むな!!」
何故今更になって、こんな説教をせねばならないのか。ウェイバーは少しだけ、泣きたくなってきた。
「そうは言うが。余はを征服すると決めておるぞ」
「人間はモノじゃないんだ!蹂躙したら犯罪なんだよこの大馬鹿!!」
相変わらずの呑気な物言いに、遂にウェイバーの堪忍袋の緒が切れた。

確かにウェイバーの生国は、紳士の国と名高い。
だからと言って、ウェイバーが特別フェミニストという訳ではない。
ただ、人を見る目はそれなりにあると自負している。
短い付き合いだけれど、ウェイバーから見て、は遊びの出来る女ではない。
真摯な相手には、それなりに真摯な態度を持って接するべきだ。
それはウェイバーにとって当然の事で、勿論自分のサーヴァントたるライダーにも要求したい。
それを違える事は、ウェイバー・ベルベットのプライドを損なう事に他ならないから。

掴みかからんばかりの勢いに、だがライダーは、僅かに片目を細めただけだった。
「馬鹿者。制覇してなお辱めぬ、と言うたであろう。征服した後は、存分に愛でるに決まっておる」
「だからッ……」
ウェイバーは言葉を詰まらせた。
言わなきゃ分からないのか、この馬鹿は。
これだけは、コイツには特に、言いたくはなかったのに。
───でも。

彼女の、歳の割にあどけない笑顔を思い出す。
呑気に語りかける、声を思い出す。


「──そんな事言って……オマエ、ずっと傍にいられる訳じゃないじゃないか」

サーヴァントだから。
戦いが終われば、英霊の座に呼び戻される。
ここにいるこの男は、泡沫の奇跡。

「彼女は……は、人間なんだ…」

わかってんのか、馬鹿。と。
最後の言葉は、半ば呟きのようだった。


「なんだ、そのような事なら心配いらぬぞ」
顔を上げると、目の前のサーヴァントは、爽快に笑っていた。
何を、と問うより早く。
「余が受肉した暁には、を妃として迎える。何の問題もなかろう?」



受肉。



「──そうだった…」
がくり、とウェイバーが膝をつく。
そういえばそうだった。
このサーヴァントは、聖杯に受肉を望むなんつー、馬鹿げた奴だったのだ。
失念していた。すっかり失念していた。

──何で、だ?

このボクに限って。
こんな分かり切った事を、失念してしまうなんて。


そこではたと気付く。
否、気付いてしまった。
自分が、このサーヴァントだけでなく、ただの一般人であるあの女性にまで、調子を狂わされていると──
色々規格外なこの男はともかく、何であんな、ごくごく普通の女に、自分は調子を崩されているのか。
答えは、ウェイバーの19年の人生の中には見つからない。
解らなくてイライラする。
多分、解るまでイライラする。


「つまり坊主の心配は、全て杞憂だったという事か?」
「うるさい馬鹿ッ!!」


ちょっと涙目で怒鳴り返す。
ウェイバー・ベルベットの受難は、まだ始まったばかり。







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080908