少し遅めの残業を終えて、裏口へと歩く足取りは、疲れの所為か少し重い。
警備員さんと挨拶を交わしてノブに手をかけたところで、後ろから聞こえてくる足音。
「あれ、今帰り?」
そう声をかけてきたのは、この時間に見るのは珍しい人物─石神さん、だった。





case1.ラーメン屋





珍しいですね、と思ったままを口に出すと、監督とミーティングをしていたのだと石神さんは答えた。
「大変だね、こんな時間まで」
「それはお互い様ですよ」
そう言って苦笑すると、いやいや。と石神さんは片眉を下げた。
「他の奴らはとっくに帰ってたぜ?何で一人で残ってんの」
「私まだ仕事に慣れてないから、時間かかっちゃうんです」
社会人歴はそこそこだけれど、有里ちゃんに声をかけて貰ってここに雇われてからはまだ半年も経ってなく、仕事内容も初めての分野であることも手伝って、覚えることは未だに少なくない。
「慣れない奴が残業してるって、効率悪くねえ?」
石神さんはそう言うけれど、そして私もそう思わなくもないけれど、今のところウチの体勢はそんな感じ、らしかった。
この点については、有里ちゃんも時々ボヤいている。
「体良く押し付けられてたりしない?」
「どうなんでしょうねー」
優しい石神さんは心配してくれるけど、私の立場じゃそう曖昧に返すしかない。

「ま、いいや。とりあえず」
石神さんが私の一歩前に出て、ドアノブを回す。
「飯でも食いに行かない?俺腹ペコでさ」
眉を下げて胃の辺りをさする石神さん。
思い出したように、私のお腹も小さくキュウ、と音を上げた。
「私もです」
苦笑を返すと、だよなー、と石神さんも笑った。



連れて行って貰ったのはこじんまりとしたラーメン屋。この辺じゃ珍しい喜多方ラーメンのお店だった。
『遅くまでやってるラーメン屋があるんだよ。えーと何だっけ、福島の方の』
『喜多方ラーメン?』
『それそれ』
行きつけのお店という割に、石神さんの記憶は適当だった。
割とウマイから、という言葉通り、味は満足出来るものだったので、私としてはそれで良かったけれど。

「ふー、ごちそうさま」
「おいしかったー、ごちそうさまでした」
店を出て、二人して膨れたお腹をさする。
残業の疲れもすっかり飛んで上機嫌な私は、忘れないうちに、とバッグを探る。
「石神さん」
「ん?」
「私の分」
「あー、いいって」
財布を出しかけると、石神さんは手をヒラヒラ振ってそれを制した。
「でも」
「いやいや、誘ったのはこっちだし。あとまあ、これくらいでワリカンすんのも面倒じゃない」
そこまで言われると、こちらとしても出しづらくなって、私は財布を引っ込める。
「じゃあ、その…ごちそうさまでした!」
もう一度、今度は石神さんに向けて頭を下げる。
いいって。と、石神さんがいつもの軽い調子で応じた。


「…っと」
帰途に着こうとした辺りで、前を歩いていた石神さんが足を止めた。
つられて立ち止まる(もう少しで背中にぶつかるところだった。危ない)。
目線の先を追うと、何だか人だかり、というか人混み、がざわざわとしていた。
「何だ?今日祭りでもやってんの」
「うーん、そういう話は聞いてませんけど…」
不穏な気配とかはなくて、単純に盛り上がっている、という雰囲気。
「イベントでもやってんのかな。この辺時々あるもんなあ」
首を捻る石神さんに、そうかも知れませんね、と曖昧に答える。
あー、と後ろ頭をかく石神さん。
何だろう、と思っていると、

「こーりゃ、はぐれるねえ」
ぎゅ、と。
何でもないような動作で、手を、握られた。

「………えっ…と」
「うん?」
何が起こったのか理解するのに、少し時間を要した。
石神さんの、少しゴツゴツした大きな手が、私の手を握っていて。
おまけに指は、互い違いに絡められていて…ええとあれだ、よく言う『カップル繋ぎ』という…アレ。
戸惑う私とは逆に、石神さんは至っていつもの調子で歩いて行く。
ああ、多分この人、深いことは何も考えてないんだろうなあ、と、その声色で理解する。
私は一つ、軽い息を吐いて。
「引率のお兄さんみたいですね」
そう言って、笑うと。
「ははっ。そうですよー、引率の石神お兄さんです」
なんて、冗談めかした口調で返してくれた。
石神さんの手は、ひんやりと少し冷たくて。
ちゃん、手あったかいねー」
なんて、分かってるんだか分かってないんだか読めない調子で石神さんが言う。
こっちは鼓動が掌を通じて伝わってしまいやしないかとひやひやしてそれどころじゃなくて、そうですか。と小声で返すのが精一杯だった。
「子供じゃないんですよー」
そう、言ってみると。
「そりゃそうなんだけどさ。離してたらどっか行っちゃいそうっていうか。ふと後ろ向いたらいない感じするじゃん、ちゃんって」
おかしな返事が返ってきて。
「猫じゃないんですから」
そう反論してみると。
「えー?でも猫みたいだよ?」
と返された。
「よく、ボーーーっとしてるっしょ」
「よく、はしてないですけど」
ちょっとだけ不本意な回答に、ぼそりと返す。
「いやいや。結構してるって」
そう言って、石神さんは笑う。
その笑顔が素敵で、私はつい反論の手を止めてしまう。
石神さんの手が、ぎゅ、とさっきよりも少しだけ強く、握り直してくる。
それだけでもう、私の胸はいっぱいになってしまって、何も言えない。


「…あ。ここまででいいです」
気付くと私の自宅が見えるところまで来ていて、私は慌てて足を止める。
「おっ。そっか」
石神さんも足を止める。
手は、繋がれたまま。
「ありがとうございました。わざわざ送って頂いて」
何となく、こっちから手を解くことはしづらくて、片手を繋いで向かい合ったまま私はお礼を言う。
「いやあ、女の子をこんな時間に一人で帰すのもね」
石神さんが、そう言って、繋いでない方の手をヒラヒラと振る。
「女の子って歳じゃないですけど」
苦笑すると、石神さんがまたまた、と笑う。
えっ、と思わず聞き返すと、石神さんは動きを止めて、瞬きをして。
「え?そんな歳だっけ?」
初めて知った、という顔で、言うものだから。
「私、堺さんと同じですよ?」
そう、言ってみると。
「ありゃ、じゃあ年上?」
思いがけない言葉が返ってきて。

「……えっ、じゃあ、年下?」
石神さんの顔をまじまじと見て、そう言うと。
「そうなるねえ。俺、堺さんの1個下だし」
さらりと、石神さんが衝撃の事実を口にした。
「………えっ、と」
「………あー…」
気まずい沈黙が、少し流れて。

「すいませんでした。普通にタメ口聞いて」
「あっいえそんな…こちらこそ」
真面目な顔で頭を下げる石神さんに、つられてこちらも頭を下げる。
「だって、年上感ないんだもんなー」
いつもの声に戻って顔を上げた石神さんの表情は、少しも悪びれた風ではなくて。
「石神さんも、年下って感じしないですよ」
言い返すと、俺老けてんのかね?なんて自分の顎を触る石神さん。
「いえ、見た目はむしろ若いんですけど、その」
「わーかってるって」
慌てて付け加えると、石神さんは軽く苦笑した。


そうして、どちらからともなく、また沈黙して。
「お、もうこんな時間か」
月の位置を見て、石神さんが呟く。
「寒い中話し込んじまってごめんな。じゃ」
「…あ、はい」
「…………」
「…………」
三度、沈黙してしまったのは、言葉とは裏腹に、手が、繋がれたままだったからで。
「あ、あの…」
「ん?」
首を傾げる石神さんの手元(には私の手もあるのだけど)を、遠慮がちに見つめてみる。
「─…ああ!ごめんごめん」
ようやく気付いたみたいで、石神さんが手を離す。
離す直前、きゅ、とまた、軽く握られた…気がしたのは、流石に気のせいかも知れない。
今夜の私は、ちょっとどころでなく、正常な判断が出来る状態ではなくなってしまっているから。

手を上げて去って行く石神さんの姿が、曲がり角に消えるまで見送って、部屋に戻る。
パタン、と閉めた扉に背中を預けて。
(…どうしよう…)
どちらの、かは分からないけれど、僅かに汗ばんだ掌を見つめて。
この手洗えないなあ…なんて、中学生みたいなことを思った。




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「隙だらけに見えて、意外と隙ねーなー」
夜道をのんびりと歩きながら、石神は一人呟いた。
見上げると、煌々と照らす月と、無数の星。
「東京で星が見えるってのも、珍しいよ、な」
一瞬、足を止めるが、まるで胸の内を覗かれているような夜空の明かりに、少し眉を顰めて、また歩き出す。
「まー、焦ってもしゃーないしねー」
誰に聞かれることない言葉を口に出し、寒ッと肩を震わせ、少し早足で石神は帰路を歩いた。







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タッツミーとミーティングしてたっていうのは方便です。計画的ガミさん。
120114