「……ん」
クラブハウスの廊下を歩いていた石神の目が、ある部屋でふと止まった。
何の変哲はないクラブ内の事務所で、数名の職員がデスクに向かっている。
目が止まったのは、今朝方のチームメイトの会話を頭が過ぎったからだった。
何でも、新しく入った事務員が、割と美人だとか何とか。





こんな初対面





「………」
入り口からぐるりと部屋の中を覗くが、見知った顔しかない。
そこでふと、石神の視線が、無人のデスクで止まる。
「…あれか?」
パソコンが点いたままのその席は、他と比べて物が少なくさっぱりと片付いている。
入ったばかりだと言うから物が少ないのはさもありなんで、恐らくそこで正解だろうと石神はアタリをつけた。
「ふーん」
べこ、と飲んでいたパックの乳酸菌飲料が音を立てる。
彼にとってはたまたま通りがかったついでに覗いてみただけで、若手らのような積極的な興味は特になかった。
(ま、同じ敷地内だし、そのうち嫌でも会うだろ)
見つければ挨拶の一つでもとは思っていたが、いないものを待つ趣味もなく、石神はそのまま事務所の前を通り過ぎた。



べこり、と中身の空いたジュースのパックがひしゃげる。
ゴミ箱ゴミ箱、と目線を彷徨わせると、給湯室が数歩先のところにあった。
丁度いいや、と石神は給湯室に足を踏み入れようとした。
電気の点いていない狭いその部屋で、
「──…ん…っ」
右手で左手を掴んで右方向に身体を懸命に伸ばす、一人の女性の背中があった。

思わず足を止める石神。
(─…何してんだ?)
見たところストレッチのようではあったが、その人物の動きは尽く、硬い。
覗き見のつもりはなかったが、暗い部屋でまるで忍ぶようにストレッチをする人間など見たことがなく、石神はしばしその後姿をぽかんと見ていた。
縦、横、斜めと、ひと通り身体を伸ばし切った後、目の前の彼女は首をゴキゴキと回し始めた。
本当に、ゴキゴキと音が鳴ったのだ。
「うわ」
思わず、石神の声が出た。
「!?」
目の前の女性は、その声にびくんと肩を揺らし、慌てたように背後を振り返った。

「──…あ」
「………くっ」

石神の口から漏れたのは笑い声で、つい吹き出した理由としては、彼女の顔がみるみる赤くなって、その姿勢のまま動きを止めてしまったのが可笑しかった、から。

「ふっ…くっくっくっ」
「え…っと……石神、さん…?」

流石に声を出して笑うのは失礼過ぎるだろうと、口元を抑えて肩を震わせる石神に、彼女が遠慮がちに声をかける。
それは石神が初めて見る顔で、初めて聞く声だった。件の人物に間違いないだろう。
「はい、石神ですよー…くくっ」
片手を挙げて応じつつも、笑いが抑え切れない。
「いや、ごめんちょっとツボ入っ…ふはっ」
「……えーと…」
声は立てずとも爆笑する石神を、恥ずかしさと困惑の混じった顔で見る彼女。
「あの、こちらに御用でしたか。私もう、失礼しますので」
パチリ、と彼女が部屋の明かりを点ける。
「ああいや、そうじゃないんだよ。いや用はあるんだけどそんな、かしこまらないで」
ようやく笑いを収めた石神が、目尻の涙を拭いつつひらひらと手を振る。
返す動作でガコン、と入り口のゴミ箱に、ジュースの空き箱を捨てた。
「ゴミ捨てに来ただけ」
そう言うと、彼女は、そうだったんですか。と未だ赤い顔を必死に取り繕って答えた。

「ごめんねー。盗み見のつもりじゃなかったんだけど、かわいくってつい」
「…はい?」
へらりと笑う石神に、彼女が訝しげな声を上げる。
いやだって、と石神が続ける。
「猫みたいだなってさ。誰も見てないとこで、一人で一生懸命伸びして」
「あ、えっと…」
「そんなに肩凝ってるの?仕事大変?」
「あいえ、そういう訳では…ただ、デスクワークなので」
「あーまーねー。ちゃん、見るからに肩こりそうだしなあ」
ちらり、と一瞬、石神の目線が彼女の胸元に行くが、それ以上口には出さない。
「えっ」
「ん?」
石神の言葉にさらりと混ぜられた自分の呼称であろうそれに、は思わず反応した。
どうしたの?と石神が首を傾げる。
「…あの、私の名前」
ちゃんでしょ?…ああそうか、話すのは初めてだもんな。はじめまして、石神達雄です」
「あ、知って…ます。初めまして、石神さん」
ぺこりと頭を下げる石神にこちらも頭を下げながら、が答える。
「…ええと」
見合ったが、少し言いづらそうに石神を見つめた。
どうした?ともう一度、石神。
…です。私の名前。
「うん、知ってる」
さらり、と頷く石神。
「だから、ちゃんだよね」
が何度も瞬きをする。
やがて、ようやく元の肌色を取り戻しつつあった顔が、再び赤く染まった。
「あれ、どうしたのちゃん」
「いえその、ですから」
そんな風に呼ばれたのは少なくとも小さな頃以来、とんと彼女には覚えがなくて。
何かを言おうと思うも、まるで邪気のない石神の表情と物言いに、結局は口を噤んでしまう。

「…いえ。何でも、ないです」
石神から視線を逸らしつつ、声を搾り出す。
と、彼女の頭に何かが触れた。

「かわいいなー」
触れたのは石神の手で、彼は彼女の頭を子供にするように撫でていた。
「…ちょ、あの、石神、さん」
「ん?何?」
「何、じゃなくて…!」
「かわいいかわいい」
「かわいくないですからその、手を、あの」
「えー?かわいいじゃん」
耳まで赤くなったを見て、石神が更にその頭を撫でる。
「い、石神さん…!」
「おっと。ごめんごめん」
ほんの少しだけキツイ口調で咎められ(しかし迫力は全くない)、石神はやり過ぎたかと手を離した。
彼女を見れば、うう、と小さな声で呻いている。
隠れてストレッチという、多分彼女にとっては見られたくないであろう場面を覗き見してしまったことに加えて、今の行為で更に辱めてしまったことについては素直に反省をし、石神はポケットを探った。

「これで許してくんないかな」
そう言って石神が差し出したのは、大きめの一枚のビスケット。
「…いえ、許すとかそういうのでは、ないんですけど」
ぽつりと零しつつ、はそれを遠慮がちに受け取った。
時刻は夕方に差し掛かったところで、受け取ったビスケットを見ての顔が少し緩む。
その様子を見て石神は更に可愛いと思うが、この辺りが今のボーダーラインだろうと口には出さずにおいた。

「この後、まだ仕事?」
「え?あ、はい」
慌てて顔を上げたに、頑張ってね、と石神。
「ありがとうございます。石神さんも、練習お疲れ様でした」
落ち着きを取り戻した彼女は背筋をピンと伸ばし、丁寧に頭を下げた。
表情も適度に緊張感をたたえており、なるほど後輩たちの言っていたのはこのことか、と石神は納得をした。

「いえいえ。じゃあ、またねちゃん」
「!…はい、お、お気をつけて」
しかし呼び方一つで簡単にその仮面が剥がれてしまう様を見て、石神の口元が自然と緩む。
手を振って背中を向けるまで、彼女は頭を下げて見送っていた。
あれは行き過ぎた礼儀なのか、それとも顔を見られたくなかったのか。

「いや、今季は中々面白いシーズンになりそうだね」

どちらにせよ、石神にとって楽しみの一つが増えた、そんな一日の終わりだった。








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初めは、何か面白いの見つけたなー、くらいの感じだったんです。きっと。
120127