ネット越しのグラウンドでは、今日もあの人が走っている。
こうして練習を見学するのは、初めてではないけれど久しぶりのことではあって、胸の高鳴りを抑えるように、抱えた荷物をぎゅっと抱きしめた。
吐く息は、白い。
目線の先のあの人も、白い息を吐いている。
いつもより、少しだけ
「ちゃん」
練習が終わり、着替えを済ませた石神さんが、ネットを背に佇んでいた私に声をかけた。
黒のダウンジャケットにジーンズ姿の石神さんは、私が気づくと笑顔で片手を上げた。
「お疲れ様です」
「ありがと。ところでどうしたの?今日休みだよね」
労いの言葉をかけると、石神さんは少し背を屈めて、私に目線を合わせた。
「練習、見学してました」
笑って答えると、知ってる知ってる、と石神さんは私の頭をニット帽越しに軽く撫でた。
「昼からずっといたでしょ」
目合ったの気づいた?との問いに、少しはにかみつつハイ、と頷く。
─やっぱりあのとき、こっち見てたんだ。
練習の合間、こちらをちらりと見て、何かを見つけたように目を少し見開き、そして笑顔になった石神さんを思い出す。
「寒かったっしょ。ってうわ、冷えてんじゃん」
私の頬にぺたりと触れ、石神さんが驚いたように声を上げた。
「石神さんこそ、寒い中練習…」
「俺はホラ、動いた後だから寒くないっつーか、実はちょっと暑いくらい」
そう言って、首に巻いていたマフラーを、私の首にかける石神さん。
「えっ」
「ハイ、じっとしてー」
驚いている間に、青いマフラーで私の首元はぐるぐる巻きにされてしまう。
「お、中々似合う」
巻き終わった石神さんは、満足気に頷いた。
ぽかんとしている私に、つーかさ、と石神さんは続ける。
「寒いのに首冷やしちゃ駄目でしょ。女の子なんだから」
「あ、いえ、今日はそんなに寒くなかったから…」
「だーめ。お家帰るまでそれ巻いてなさい」
相変わらずの保護者然とした声で言いくるめられてしまう。
帽子とマフラーで顔が隠れてるといいな、と思いつつ、上がった頬の体温を感じながら私は素直に首肯した。
「で、どうしたの?休出…じゃないよな、まさか」
心配げに言ってくれる石神さんに、違いますよ、と笑顔で答える。
「実は、ですね」
「うん」
「純粋に練習を見に来ただけではなくて」
「まあ、それは何となく分かるけど」
「───これを」
「うん?」
やっとの思いで声を絞り出し、出来るだけ平静を装って手元の包みを差し出した。
石神さんは、流れでそれを受け取ってくれた後、3秒ほど考え込むように視線を彷徨わせ、
「……バレンタイン?」
こちらを見て、そう、言った。
ハイ、と答えると、おー。と感心したような声を上げる石神さん。
「あ、あの。えっと、いつもお食事に誘って頂いたりして、その、色々と、お世話になってるので、その、そういう、意味、で」
「あ、そうなの?」
「えっ」
「いやいや。それでわざわざ来てくれたのかー。ん、ありがと」
慌てて付け加えた、用意していた言い訳に、石神さんはさらりといつもの調子で応じる。
お礼の言葉と一緒に、また頭を撫でられる。今度は、さっきよりも多めに。
「わ、石神さん、ちょ」
「ちゃんはホント、いい子だなー」
だからその子供のような扱いを、という言葉も、今日という日に限っては飲み込んで、されるがままに身体を強張らせる、私。
「─ありがとな」
ふと、さっきまでと違う声音で言われて、石神さんの顔を見ると、とっても優しい顔で微笑んでいた。
「──い、え。そんな」
それだけを搾り出すのが、精一杯で。
恥ずかしさに俯きたくなったけれど、石神さんのその表情から目が、離せなかった。
「何か色々入ってんね。開けていい?」
やがて、私の頭部から手を離した石神さんは、包みの大きさと重量を確認するようにして、私の方をちらりと見て言った。
どうぞ、と頷く私。
「おーやったー。ははっ、何かわくわくする」
なんて、子供みたいに弾んだ声で、石神さんが包み紙を丁寧に解いていく。
「適当に破いちゃっていいですよ」
「えー、やだよ。勿体ない」
「いえ、それ包んだの自分ですので…」
「なら尚更勿体ないじゃん」
何言ってんの、と口を尖らせながら、器用に包みを解く石神さん。
「おっ」
先ず取り出したのは、新品のタオル。
「…あって困るものじゃないと、思ったので」
「うん、すげー助かる。俺割と汗かくからさー」
支給品じゃ足りないんだよね。と、そのままタオルを広げた石神さんが、何かに気づいて動きを止めた。
「──これ」
「あ、えっと」
広げて見せられた部分には『5』の数字の刺繍。
流石にバレるよなあ、と私は恥ずかしさに逃げ出したくなった。
─いや、自業自得ではあるんだけど。
「もしかしてコレ、ちゃんが縫った?」
「……ハイ。その、そうすれば他の人と間違えることもないかなって………すみません、あまり綺麗じゃなくて」
尻すぼみ気味に謝ると、何で謝ってんの?と上から石神さんの声。
「上手く縫えてんじゃん。一瞬、既製品かと思ったって」
「や、フォローして頂かなくても…」
苦笑すると、石神さんは私の額をコツン、と痛くない程度の強さで小突いた。
「だーから、何で疑うの。手縫いだって気づいたのはさ、ブランドもののタオルに数字のロゴが丁度良く入ってるなんてねーだろなーって思ったからだよ」
わかった?と、少し拗ねたような口調で私の頭を撫でる石神さん。
ここで更に謝るとまたややこしくなるので、私は素直にハイと首を縦に振った。
「でー、まだ何か入ってるなーっと」
何が出るかな、と例の節で口ずさみながら、石神さんの手が袋の中を探る。
「おー。酒かー」
石神さんの顔が明るくなる。
私はほっと胸を撫で下ろした。
前に呑みに行ったとき、好きなワインの銘柄をたまたま聞いたのが役立った。
「よく覚えてたね、ちゃん」
あんまり嬉しそうに、そう言うものだから、
「それはもう、敬愛する石神さんのことですから」
などと冗談めかして答えると、石神さんの目が意地悪げに細められた。
「敬愛の敬、がないともっと良かったんだけどなー?」
心臓が飛び跳ねそうになるが、かろうじて抑える。
そんなこと勿論思ってるけど、言える訳がない、のに。
思わずちょっと睨むような目になってしまっていたのか、
「ごめんごめん。謝るから怒んないで、ちゃん」
石神さんが、そっと優しく私の頭をまた、撫でた。
顔から蒸気が噴き出してしまうんじゃないかと言うくらい頬が熱くなって、私は耐え切れずに下を向く。
「…その、チョコ、は、きっと沢山貰うんだろうなと、思った、ので」
お酒をチョイスした理由を簡潔に述べると、へ?などと石神さんが間の抜けた声を上げた。
「貰うって、誰が?」
「え、石神さん、が」
「………誰から…?」
「サポーターの人とか、クラブの人とか、あとは………彼女さん、とか」
最後の方は、どうしても小さい声になってしまう。
本当は、想像するのだって怖いのだ。
なのにこんなものを渡したりしている辺り、私も馬鹿だなあ、なんて思う。
「…ちゃん?」
「……はい?」
顔を上げると、石神さんは、少し困ったような、それでいてやや物悲しそうな表情をしていた。
「…えーと、ね。ちゃんが何を勘違いしてるのかは何となく分かったけど」
「はい?」
「先ず、俺のサポに女の子はあんまいない。クラブからは…食堂のおばちゃんが昼飯にキットカットつけてくれる年もあるけど、そんくらい。で、彼女さんと呼べる人はここしばらく、いません」
「………」
「…あの、せめて何か反応返してよ。こういうこと自分で言うの、実際ちょっとどころじゃなく空しいんだから」
石神さんが頭をかきながら、眉を下げる。
私はたっぷり数秒間、返事を探して、
「その……何か、ごめんなさい……」
「謝んないでよ…余計悲しいからさ…」
寂しそうな石神さんの声を、更に引き出してしまった。
「ま、だからさ」
声のトーンを戻して、石神さんが袋の底を漁る。
「ちゃんにこうやって寒い中、わざわざ会いに来て渡して貰えるってのは、俺的には割とかなり嬉しかったりするんだけど……お、なんか出てきた」
石神さんが最後に取り出したのは、ブラウンのリボンがかかった小さな箱で、
「……ん?」
箱と私を見比べて、石神さんが首を捻る。
「これって…チョコ、のように、俺には見えるんだけど」
「はい、チョコです…」
「さっき、チョコはないって言ってなかった?」
「あの、ですから、出来るだけ小さいものに」
詰問されているような展開に、私の頭が徐々に下を向く。
石神さんは、一歩、私との間合いを詰めて。
「─それでもチョコをくれたのは、どうして?」
下から覗き込むように、私と目を合わせた。
う、と言葉に詰まるが、逃がしてくれそうな気配はまるきりない。
私は観念して、
「その…折角、バレンタイン…なの、で、やっぱりチョコもあげたいなあ……と…」
思って。と、途切れ途切れに答えると、石神さんは私の顔を覗き込んだまま、にーと満面の笑みを浮かべた。
「き、既製品です、から」
「うん。それはラベル見たら分かる」
「えっとその、変な意味も特には」
「変な意味って何ー?」
「…っ石神さんの意地悪…!」
「心外だなー。俺がいつちゃんに意地悪したの」
「い、いつもです!いつも!」
「あれはそーいうんじゃありませーん」
「実際、いじって遊んでるじゃないですか…っ」
「だーから、違うって」
石神さんが、片眉を下げたまま笑って、こちらを見る。
そういう顔をされると、私はとても弱くて、何も言えなくなってしまう。
「ま、とりあえず、さ」
石神さんが、ワインの瓶をひょいと掲げた。
「この後、時間ある?」
「え、はい。まあ」
困惑しつつも首肯すると、じゃあ、と石神さんは続けた。
「ウチ来ない?折角の旨い酒、一人で飲むのもつまんねえし」
「え、でも」
「大丈夫、今日は取って食べたりしないから」
「今日は、って何ですか…」
少し呆れ口調で返すと、ははっ、と石神さんは軽快に笑った。
「…多分、ね」
「え、何ですか?」
背を向けた発せられた言葉が聞き取れなくて聞き返すと、石神さんはこちらを振り返って、
「内緒ー」
そう言って、私の手を引いて、人もまばらなグラウンドの脇を、さくさくと鼻歌交じりに歩き始めた。
+++
ガミさんでバレンタイン夢でした。
ギリギリ義理な贈り物って何をあげたらいいの!?と結構悩みましたが、結局無難なところに。
120201