ちゃん、これはどうしたらいいの?」
「あ、それはもう出して貰っちゃって…」
それは、他愛のないコンビニ店員同士のやり取り。
中年の女性パート店員に質問された彼女は、てきぱきと指示を与える。
コールドケースからペットボトルの水を手に取った小森が思わず振り返ったのは、そのやり取りで、あることに気付いてしまったから。





呼び名と距離と初めての日





「あんたの名前って、どんな字書くんでしたっけ」
テレビのサッカー中継を眺めつつベッドにもたれかかって食後のお茶を飲む小森が、唐突にそんなことを聞くものだから、は一瞬動きを止めた。
「えっと」
キョロキョロとテーブルの上を見渡した後、書くものある?と問うと、小森はカラーボックスからペンとメモ帳を持ってきた。
「ありがと。──こういう字」
さらさらとペンを滑らせると、ふうんと小森が鼻を鳴らす。
「あれ、知らなかった?」
「いや、知ってますけど」
問えば、ちぐはぐな答えが返ってくる。
は少し眉を寄せて、首を傾げた。
「いやね」
彼女が何事か問う前に、小森がテレビに視線を戻して言葉を発する。
「そういや、名前呼んだことないなって」

は、3秒間ほど、小森の横顔を見つめて。
「─そういえば、そうだね」
言って、ふっと笑みを零すと、そのままクスクスと上品に笑った。
「いつまでも、あんた呼ばわりもどうかなって、ふと思って」
今更もいいとこですけどね、と小森が、の方に視線を寄越す。
そう?とが微笑む。
「いや…割と普通に失礼じゃないスか?」
むしろよく今まで何も指摘されなかったものだ、とすら小森は思う。
当の彼女は、そうかな、と呟いた後、考えるように宙に視線を彷徨わせた。
「でも、小森くんにそう呼ばれるの、私は嫌じゃないよ」
「そう、スか?」
訝しげに問う小森。
は、照れ臭いのか、少しもじもじと身体を揺らした後、ほんのりと紅い顔で微笑んだ。
「確かに、人によっては失礼だなって思うだろうけど。小森くんのは何だか…そういうのじゃなくて、親しみが感じられるっていうか」
言ってから、なんてね。と誤魔化し笑いをする

「──…」
小森は、テレビの電源を切ると、そのままの隣まで移動した。
「小森くん?──わ」
ぎゅ、と。
そっと抱き締められて、がピクリと肩を上下させる。
肩口から小森の鼻先が這い、首筋に軽く口付けをされた。
そのまま、熱い息が耳元まで移動して。

「──。」

ビクリ、と、彼女の身体が揺れる。
背中に回された両手が、きゅっと小森のTシャツを掴んだ。
「こ……もり、くん」
「…どうしたんスか」
覗き込むと、彼女の顔は、真っ赤に染まっていて。
「え、何。名前呼んだだけでそんな───ってう、わ」
控えめにTシャツを掴んでいた両手が首に回され、先程とは逆にのしかかられる勢いで、彼女が小森に抱きついた。それはもう、力いっぱい。
「あぶね…ッ」
背中から押し倒されそうになるところを、手をついて留まる。
ぎゅう、と抱きつく拘束力は稀に見る力加減で、触れ合う距離に寄せた彼女の顔が、小森の頬に全力で擦り寄ってくる。
「…何なんスか」
跳ねる鼓動を押し隠しつつ問うと、彼女はぴったりと頬を寄せたまま、

「─小森くん…」
「はい?」
「──大好き……!」

囁くように、けれどはっきりと耳に届いたその言葉を聞いて、
「…名前呼ばれると、嬉しいんスか?」
問えば、うん、と彼女が嬉しそうに頷く。
「犬か猫みたいスね」
そう言うと、いつもはむくれる彼女が、今日はぎゅう、と小森に抱きついたまま大人しくしている。
「──…ったく」
小森は身体を起こすと、ぺったりと貼り付くように抱きついた彼女の身体を、両腕でしっかりと抱き締め返した。
「呼んで欲しいなら、もっと早く言えばいいのに」
ぼそりと言うと、彼女はううん、と首を横に振って。
「違うの。いつもの呼ばれ方もホントに好きなの、嬉しいの。でも…」
彼女が、小森の肩口に顔を埋める。
「…名前、呼ばれてみたら……何だか、すっごく嬉しくって」
「──そっスか」
─こんなに喜ぶなら、もっと早く呼んでりゃ良かったな。
そんなことを思いながら、小森は彼女の頭を掻き抱いた。


「─ガッカリさせても何なんで、先に言っときますけど」
いつものぶっきらぼうな口調で、抱き合ったまま小森が切り出す。
何?と、彼女が首を傾げて小森を見つめる。
顔が熱を帯びたのを感じて、小森は少し視線を逸らした。
「多分、直ぐに全部呼び方変えるとか、そうそう出来ないんで。今まで通り、あんた、とか呼ぶと思いますけど」
「うん」
彼女が、それでも嬉しそうな顔を崩さずに頷く。
小森は、彼女の顎に指をかけ、そっと口付けを落とした。
「─名前でもちゃんと、呼ぶようにします。これからは」
が、花が咲いたような笑顔を零す。
でも、今まで通りでもいいんだよ?などと、嬉しそうに微笑んだまま彼女が言う。
「今ので胸がいっぱいになっちゃうくらい、貰ったから」
「──…っ」
ああもう、と心の中で言いながら小森は、彼女の身体を力いっぱい抱き締め直した。

「──俺、」
やがて小森が、ぽつりと零すように口を開いた。
「あんた、って、他の人間にも普通に言うんスよ」
「うん」
「かと言って、お前、は親しい相手か、嫌いな奴にしか使わないんで」
「そうなんだ」
彼女が、素直に一々反応を返す。
小森は、少し腕の拘束を緩め、彼女と目線を合わせた。
そのまま、貪るように、長い口付けをする。

「──…は、」
唇が、離れた瞬間。
彼女が、酸素を求めて息を吸う。
小森は、もう一度、今度はそっと、口付けをして。

「─…一番近い位置にいるのに、他と同じ呼び方ってのもおかしいなって」

思うじゃないですか。と。
そう、彼女の目を見て言って。
「だから、。って呼ぶんで」
そこんとこよろしく。と、最後は少し誤魔化すように締める。
は、目を見開いて小森をじっと見ていたが、やがて。
「──小森くん!」
「─…っちょ、」
先程よりも更に勢いをつけて、小森の胸へ飛び込んだ。
小森が、仄かに紅い顔のまま、少し呆れたような視線を投げる。
「……何スか」
まあ、大体想像つきますけど、と言うと、彼女は、またもぎゅっと小森に抱きつき。
「好き…!すっごく好き、大好き!」
「…俺もっス」
ぶっきらぼうに答えて髪を撫でると、彼女は顔を上げて、今日一番の笑顔で、幸せ。と言った。








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というわけで、晴れて名前を呼ばれるようになりました、という。
小森って、関係が変わってもそのまま癖で何となく、特に接し方とか変えなかったりしそうだなあ、と。
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