「調子悪いんスか?」
背中からかけられた声に、鏡と対面していたが振り返ると、じっとこちらを見つめる小森と目が合った。
既に着替えは済んでおり、ちょうど口紅を塗り終えたところで、出勤までの数分をぼんやりとしていたところだった。




月曜と憂鬱と手の温もり





出掛けにこうやって声をかけられるのは珍しいな、と思いつつ、はそれでも彼の声を聞けたこと自体が嬉しくて、暫くそのまま見つめ返した。
やがて、ふと我に返り、彼の問いに答えなければと、目線を泳がせて言葉を探した。
「…ん、身体は何ともないんだけど」
「メンタルは何かある、と」
無理に笑って見せようとするが上手くいかず、即座に正解を言い当てられてしまう。
「─…ん」
小さく頷いて肯定すると、の頭に温かいものが触れた。
柔らかい動作で、頭を撫でられていると気づくのに2秒ほどかかった。
「…こ、小森くん…?」
「─撫でますよ」
「───え」
ぶっきらぼうに、けれど優しい響きで発せられた言葉に、思わずは小森の目を見上げた。

「…こうすると、少しは楽になるってどっかで聞いたんで」
合った視線を僅かに逸らしながら、小森が言う。
その手は、の頭をそっと撫で続けていて。
僅かに上気した頬でぽかんと小森を見上げたままのに、小森はもう一度ちらり、と視線を戻して直ぐにまた逸らし。
「──まあ、つっても俺のすることなんでね。こんなことしても何にもならないかも知れませんけど」
ぼそりと、いつもの少し拗ねたような不機嫌顔で、横を向いたまま吐き出す。

「─……っ」
「!」
す、と。
遠慮がちに、が小森の肩に額をつけ、そのまま身体を預ける格好になった。
小森は一瞬目を見開いたが、直ぐに、の頭を撫でるのは続けたまま、空いている方の手をの背中に回した。
その手を、ゆっくり、さするように上下させる。
「─…こもりくん」
が、囁くように名を呼んだ。
「はい」
応じると、彼女の両手が、やはり遠慮がちに、ではあるが、しがみつくように小森の身体に回された。
その指先が、小森の服をきゅっと掴む。
「小森くん…」
目を閉じたが、もう一度、今度は求めるように小森の名を呼んだ。
その顔に頬を寄せ、ハイ、と同じように返事をする。
の両腕が、先程よりも強く、小森の身体を捕えた。

「──ありがとう…」

呟くように吐き出されたその文字列が、柔らかい響きをもって小森の耳に届く。
彼女の唇がまた何事か言いたげに開いたから、小森は答えようとした口を閉じた。
「小森くんにこうして貰うと…何だか、すごくホッとする」
見下ろせば、瞳を閉じたままそう口にした彼女の表情は、小森が最初に声をかけた時と比べ、大分穏やかなもので。
「─…なら、良かったス」
何やらこそばゆくて視線を外しつつ答えれば、小森の肩に頭を預けたままの彼女の口から可愛らしい微笑が漏れた。



「道中、気をつけて」
身支度を整えた彼女を玄関まで見送りに来た小森が、靴を履き終えたに声をかける。
「気をつけるほどの距離じゃないよ」
が苦笑する。
「転ばないように」
小森が、更に注意を上乗せする。
「転ばないよ」
「あんた、朝のうちに2回転んだ前科持ちですからね。雪の上でしたけど」
風化しかけた思い出を引き合いに出され、は返す言葉もなくむう、と唸った。
が、直ぐに背筋を伸ばし表情を引き締めて。
「──じゃ、行ってくるね」
最愛の恋人に向けて、笑顔でそう言うと。

「行ってらっしゃい。──さん」

名前を呼ばれて。
思わず瞬きをすると、当の彼は、何スか。とでも言いたげに口を尖らせていて。
は、ドアに向かっていた足をくるりと彼の方へ向き直し。

「──…ッ!」
「行ってきます」

もう一度、さっきよりも明るい笑顔でそう言うと、触れるだけの口づけを受けた彼は、驚いたように目を丸くしていた。



─バタン、とドアが閉まり、外から鍵のかかった音がした。
「……あれで不意打ちのつもりとか」
心とは裏腹の独り言を呟きながら、小森は部屋へと踵を返した。
途中、洗面台に映った自分の顔と目が合う。
「──…やっぱ、ついてるし」
唇の端に僅か付着した紅を見止め、呆れたように呟く。
「…もうちょっと寝るか」
付いた口紅の痕を拭いもせず、小森はベッドまで進むと、欠伸混じりに身体を横たえた。








+++
120326