「堺さん」
トレーニングルームへ向かおうとしていた堺を呼ぶ声に振り返ると、後方からが小走りに駆けてくるのが見えた。
何かを抱えているその両手は塞がっており、オイ、と堺は思わず声をかけた。
「あっ」
小石でも踏んだのか、がつまづいてつんのめる。
「チッ」
言わんこっちゃない、と堺は舌打ちしつつも、大きく間合いを詰めて彼女の身体を抱きとめた。
「す、すみません」
視線の下のが恐縮した目を向ける。
色々言いたいことはあったがとりあえず、
「あのな、両手が塞がった状態で走るな。危ないだろう」
何でこんな子供にするような説教をしているのだろうと思いつつ、堺はそれだけを口にした。





そんな二人の恋模様





こういうことは珍しくはなかった。
という、自分と同い年である(免許証まで見せて貰ったからどうやら真実らしい)この女は、基本的に歳相応に落ち着いてはいるものの、少し仕事から離れたり気を抜いたりしただけでこの有様で、堺良則の性格的に見過ごせる筈もなく、こうしてついつい世話を焼いてしまう。
一度注意したことは次からは直るのだが、如何せんあらゆるところにミス(ドジと言わないのは堺なりの気遣いだ)の芽を見つけては自らそこに突っ込んでいくので目が離せない。
恐らく彼女のそういう部分を知っているのは自分以外にはそうはおらず、皆に『しっかり者』と認識されているものだから尚始末に悪い。
まあ、それだけ自分が彼女にとって気の許せる相手であることの証明なのだろうと思えば、堺としても悪い気はしないのだが。


「で。何か用か」
抱きとめた身体をそのまま起こし、落ち着いたところで水を向けると、はあのですね、と手に持った包みを差し出した。
「これ、良かったら」
「…?何」
「チョコケーキです。あ、ケーキって言ってもパウンドケーキで、一応バターの代わりにカロリーオフのマーガリン使って、お砂糖も控えめにしてみたんですけど」
「自分で作ったのか?」
「はい。あまり得意じゃないんですけど、ちゃんと味見もしましたし、おかしなことにはなってない筈ですので、えーと」
緊張しているのかやや早口で捲し立てる彼女を見て、ああ、と堺は得心する。
そういえば今日は2月の14日だったな、と。

「これ、バレンタイン?」
聞くと、彼女はハイと笑顔で頷いた。
バレンタインに手作りのケーキとくれば、要はそういうことだろうと、堺は内心頷いた。
さて自分も心は決まっているものの、どういった言葉で返そうかと思案しているところ、次いで彼女が発したのは、
「あの、お弁当とか、いつも色々とお世話になってるので、少しでもお返しになればいいんですけど」
などという、堺の予想の斜め下を行く台詞だった。


堺とが互いの弁当を交換して食べるようになってから、その状況にすっかり慣れるくらいの時間は経っていた。
他人に食べさせるということで、初め彼女はかなり気を張っていたが、それは堺の方も少なからず似たようなもので、味付けの好みから食材の好き嫌いまでを有里からそれとなく聞き出すのにはそれなりの手間を要していた。
それもこれも対象が彼女だからこその行動だというのに、この女は未だに堺を『お弁当のお兄さん』程度にしか認識していないのだという中々に衝撃の事実を、他ならぬ彼女の口から突き付けられるとは。


「……フ」
無意識に、堺の口の端が皮肉に歪んだ。
「そうか。なるほど」
言いながら、の目の前で渡された包みを手早く解く堺。
可愛らしい包装の中から一切れのチョコケーキをひょいと取り出し、その場でぱくりと口に入れる。
「えっ」
予想外の展開だったのだろう、驚いた顔のに構わず、堺はしっかりと咀嚼してその一切れを胃に収めた。
「うん、美味い」
「ほ、本当ですか」
「ああ。ホラ」
ホッとした表情のの口に、一口大に千切ったケーキの欠片を差し出す堺。
「えっ何…む、ぐ」
反論の隙を与えず、そのまま彼女の口に自身の指ごと押し込んだ。
の頬が紅く染まり、驚きと抗議を半々で含んだ視線が堺を見つめる。
「な?美味いだろう」
「…何を…」
「折角美味いんだ、一緒に食べた方がいいだろ」
文句を言いたげなに構わず、彼女の唇に触れた指についたケーキのカスを、そのまま舐め取る堺。
「っ!…さ、かいさ…」
「何」
彼女の顔が首まで赤くなる。
堺は敢えて構わず、下目遣い気味に彼女と目線を合わせた。

「……っ私は作ったときに味見したから、いいんです…!」
耐えかねたのか、視線を外してそう搾り出すの口に、更に一口大のケーキが、今度は問答無用で捩じ込まれる。
「………!!」
「まあまあ、そう言わずに。な?」
顔を上げると、無表情を崩さぬままの堺が、淡々と言葉を発した。
が食べたのを確認すると、堺の指が彼女の口の端を拭う。
「ちょ」
「ん?ああ、チョコついてた」
言って、またその指を自身の口元へ持って行く堺。
「……っと待ったあ!」
その手首を、が必死の表情で掴んで止める。

「何」
「何、じゃなくて!」
「…まあいいか」
そう言うと、堺は指先へ顔を寄せて、そのまま先ほどと同じように付着したチョコレートを舐め取った。
「良、くないですって、ば!」
「何だよ」
「それはこっちの台詞です…!」
の顔は、もう頭から湯気でも噴き出すんじゃないかというくらいに真っ赤で、それを見て堺は一度だけニヤリ、と笑った。

「な、何笑って…あっからかったでしょう堺さん!?」
「してねー」
「じゃ、何ですか!」
恥ずかしさからか珍しく食ってかかるを、堺は一度だけじっと見つめて、
「─…それくらい自分で考えろ」
そう言って、スイと視線を外した。
の手が、堺の手を離す。
「え、ちょ、堺さん、それどういう」
「あ、ちなみにこれ宿題」
「は!?」
「明日、答え合わせするから。答えらんなかったらペナルティな」
「ちょ、ちょっとー!?」
じゃ、と軽く手を挙げて去って行く堺の後ろ姿を見送りながら、は途方に暮れた顔でその場に立ち尽くした。




「─どういう、じゃねえっつの。鈍感女が」
クソ、と誰にともなく吐き捨てる。
の反応を見るに堺の読みが外れているとは思えないのだが、どういうことか彼女はいつも、予想に反した反応ばかりを返す。
─まあ、あれだけすれば、幾ら何でも観念するだろ。
それでもまだ無為な抵抗をするようであれば、そのときは。
「…明日、か」
─これ以上待てるか。
慈悲も容赦もない台詞を、心の中で吐く。
「精々覚悟してろよ」
呟いて歩きつつ、堺は貰った包みのリボンをもう一度丁寧に結び直し、壊れ物を扱うようにそっと、鞄に仕舞った。








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堺さんでバレンタイン夢。でした。
攻め気と及び腰な、31歳同士の微妙な距離感。
お弁当のくだりはそのうち書けたらいいな、と思ってます。
120203