2時間の残業を終えて帰り支度を済ませたが廊下ですれ違ったのは、何かを手にブツブツと呟きながら、前も見ずに歩く達海監督その人だった。
監督のお願い
「達海さん」
呼びかけると、気づいた達海が、お、と顔を上げた。
「おー。今帰り?」
「はい。お先に失礼します」
「おーお疲れー。…んーどうすっかな…」
頭を下げて通り過ぎるに半ば上の空で返事をすると、達海はまた何やら頭をがりがりと掻いて眉を寄せた。
数歩歩いたものの、どうにも気にかかって、はくるりと振り返る。
「…あの、達海さん」
「ん?どうかしたの」
「ああいえ。その…達海さんこそ、どうかしたんですか?」
それ、と達海の手に持つ数枚のディスクを指すと、達海はああ、と呻くような声を上げた。
「いやこれ明後日の試合の資料なんだけどさ。どうにもこういうのって効率悪くてね。なんかこう、上手いこと見やすく出来ねーかなと思ったんだけど…まあ無理かな。諦めて全部通して見るかあ」
ふわあ、と欠伸と共に吐き出す。
達海の目の下には、くっきりと隈が出来ていた。顔色も若干よろしくない。
「…あの」
見かねる、とはこういう時のことを言うのだろう。
は控えめに、片手を顔の横まで上げた。
「え、そんなん出来るの」
映像編集しましょうか、と申し出たに返ってきたのは、驚きと喜びの混じった達海の言葉だった。
「凝ったことは出来ませんけど…簡単な継ぎ貼りくらいなら」
「あ、多分そんなんで十分」
達海の表情が一転して明るくなる。
しかし次の瞬間、あ、と何かに気づいたようにの姿を見た。
「今から帰るトコ…だったんだよな」
「いいですよ」
苦笑交じりにが返す。
ウチみたいなお金のないクラブは、一人ひとりが役割の枠を超えて働かないとやっていけない、という有里の言葉に、彼女も同意した一人だった。
悪い、と達海が片手を顔の前に立てる。
「残業代つけるから。お願いしていい?」
ハイ、とは快活に承諾した。
「おーそうそう。こんなんが欲しかったんだよ」
更に2時間後、達海が自室から持ってきた10枚以上のディスクを一本の動画にまとめたものを、彼の部屋のテレビで再生すると、見るなり達海は感嘆の声をあげた。
「何気にすごいね、お前」
「いえ。監督の指示通りに編集しただけですから」
むしろ時間がかかってすみません、と頭を下げる。
「いや、思ってたよりも早くて驚いたくらいだ。おー、ちゃんと俺の言った通りにしてくれてんじゃん」
「指示通りに作業するだけなら楽ですよ。直すところあったら言って下さいね」
がハキハキと答える。
事実、映像編集は彼女の普段の仕事からは若干乖離しており、彼女自身も得手とするところではなかった。
達海からの指示(ルーズリーフ5枚分に亘った)を貰い、ファイル形式を確認してインターネットでフリーソフトをダウンロードし、ソフトの使用方法の確認と借りた映像ディスクの内容チェックを同時並行しつつ、ルーズリーフと睨めっこしながら映像の編集を終えるのに約2時間。
他に頼める者もおらず頼んだはいいが、彼女も映像の編集は殆ど素人だと聞いた達海は、その倍の時間はかかると踏んでいた。
「いいね。今度からこういうのに頼もうか」
画面から目を離さず、達海が弾んだ声を出す。
分かりました、とが神妙に頷く。
達海が、の方へ顔を向けた。
「真面目だね、お前」
有里みたいに全力疾走してぶっ倒れるタイプでもないけどさ、と達海は笑って、の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「あ、ここ」
「はい」
リモコンの一時停止ボタンを押した達海が、テレビの画面を指差す。
その横に座ったが、メモ帳片手に身体を乗り出した。
「ここ、もうちょっとズーム出来ない?あと、ここのこいつの動きをもっとこう、粘っこく追いたいんだけど」
「そこだけ別視点で映すようにしましょうか?例えば、画面右上辺りにでもこう」
「え、そんなん出来るの」
「はい、多分」
即答したを見る達海の目が輝く。
「じゃあ悪いんだけどついでにえーっと、ああそうここ、ここも似たような感じで」
早送りと再生を繰り返しながら、達海が更に細かい注文をつける。
その一々を、は漏らさずメモ帳に走り書きする。
独り言を混ぜつつ、に意見を求めつつの達海の表情は、先程までと一転し真剣そのもので、
(─こうしてると、ホントに監督みたいだなあ)
当たり前かつ失礼な感想を、は心の中に抱いた。
「じゃあすみません、もう少し時間頂きますけど」
「あーいいよ、ゆっくりで。…って、そっちがそうもいかないか」
の帰宅時間を気にしたのか、達海が伺うように見る。
構いませんよ、とは快諾して事務所へ戻った。
そんなことがあってから、数日が経った。
「よう」
「っひゃ!?」
ぺたり、と突然頬に冷たい缶を押し当てられて、休憩室から窓の外を眺めていたはびくりと肩を揺らした。
「ほい」
「…達海さん」
振り向けば立っていたのは達海で、その手に持ったコーヒー缶をの方へ投げて寄越した。
そのまま、自分の分のプルタブを、片手で器用に開ける。
「あの、これ」
「ん?やる」
相変わらず説明も何もない返事を返すと、達海はゴクゴクと音を立ててコーヒーを飲んだ。
「…ありがとうございます。頂きます」
またいつもの気紛れだろうと自己完結して、も缶を開けた。
「こないだ、ありがとな」
「え?──ああ」
唐突の謝意を瞬時に察せず数秒の後、数日前の映像編集の件だとは思い当たった。
「結局、徹夜させちまっただろ」
「気にしなくていいですよ、仕事ですし」
が笑って返すと、いやあ、と達海が渋面を作る。
「あの後、後藤と有里にダブルで説教食らっちまってさあ」
件の夜、達海の手伝いで請け負った映像編集は、何だかんだで明け方までかかり、は仮眠室で始業までの数時間を休んだ。
編集作業自体は日付が変わる頃には終わっていたのだが、達海のところへ完成したディスクを持っていったが、そのままなし崩し的に達海に捕まり、映像チェックの範疇を超えた戦術会議のようなものに付き合っていたら、いつの間にか外が朝靄に包まれていた。
それはそれで貴重な経験だったのと、有言実行な達海がの残業代を夜勤手当という形で総務部に話を(勝手に)つけてくれたものだから、彼女としては不満は何一つとしてなかった、のだが。
「それは…却って、すみませんでした」
「いや、は悪くないから。悪いのは俺」
悪い、と言いつつニヒー、と笑う達海。
事前申請なしの夜勤など、基本的には禁止されている事柄であり、後藤GMが苦言を呈したのも立場上理解出来る。
一介の職員であるに、監督である達海からの依頼を断るなど出来ないことは分かっているのだろう、彼女の方には一言もお咎めはなかったのだが。
それでも有里には昨日、あんまり達海さんを甘やかしたら駄目!と可愛らしく叱られたばかりであり、善意のつもりが悪いことをしてしまったなあ、とは達海の横顔を眺めた。
「で、さ。何度も悪いんだけどまた、頼みたいことがあんだよ」
コーヒー缶を咥えたまま器用に喋る達海に、今度は何の作業だろうと首を傾げる。
「今度の日曜、用事ある?」
「え?」
「もし暇だったら、出てきてくんない?」
何でもないことのようにさらりと、休日出勤を要求する達海。
多分ここで断っても彼は何ともない顔でいいよ、と言うのだろう、とは思う。
「構いませんよ、その日は空いていますから」
「お、まじで。助かる」
休出ちゃんとつけるから、とこの間と同じ調子で言う達海に、は申請しておけばいいですか?と尋ねる。
「いや、いいよ。俺が言っとくから」
「…あの、達海さん」
「心配すんな。今度はちゃんと前もって言うから。怒られたりしねえって」
ポンポン、との頭を撫でる達海。
怒らなくとも胃痛の種は増やしてしまうんだろうなあ、とは心のなかで後藤に謝った。
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ヒロインさんも仕事はちゃんとしてるんですよ、ということが書きたかった。
120208