本日の仕事を終えて、帰ろうと玄関へ向かう途中。
バサバサと、紙束が落ちるような音に振り返れば、達海監督が手に持った資料を落としながら廊下を歩いていた。
今だけ
「あの、達海さん」
慌てて拾い集めて、追いかける。
ヘンゼルとグレーテルじゃないんだから、と思いながら差し出すと、達海さんは気だるげに振り返り、おー、と声を上げた。
「悪いね」
「って言ってる傍からまた落ちてますし!」
再び床に落ちようとした資料を、寸ででキャッチする。
「………あー…」
達海さんは、ボリボリと頭を掻いて、
「──駄目だ。眠い」
そう言って、うん。と何やら頷いた。
「うー、寒ィなあ…」
眠気覚ましに散歩する、と言い出した達海さんは、外に出るなり肩を震わせた。
成り行きでついてきたが、確かにまだ暦では夏とはいえ夜は肌寒い。
「だから、上に何か羽織った方がって言ったじゃないですか」
「いや、いい。これくらいのが目が覚めるし」
欠伸と共に、大きく伸びをする達海さん。
夜のまばらな明かりに照らされた無防備な横顔に、思わずどきりとしてしまう。
─何だろう、不思議な感じだ。
飲みかけのジュースを獲られても、あの狭い部屋で顔を寄せて話し込んでも、普段は何とも思わないのに。
息を整えるように、私は前を向いて一呼吸した。
「──あれ」
ふと、目に止まった光景に立ち止まる。
「ああ、今日もやってんのか」
達海さんが、欠伸を噛み殺しながら言う。
私たちの視線の先では、一人グラウンドに残った椿くんが、黙々とボールを蹴っていた。
「─自主練、ですか?」
「んー?まあ、良く言えばそうなるのかね」
達海さんは目を細めて、眩しいものを見るかのように口元を少し上げた。
私も視線を戻して、ひたすらにボールを蹴り続ける椿くんを観察した。
暫くすると、こちらに気付いたようで、椿くんが慌てたような表情で頭を下げた。
達海さんに続いて、私もグラウンドへ近づいていく。
「か、監督、さん。チッス」
焦ったような声を上げる椿くん。
「お疲れ様。自主練してるの?」
「え、あ、は…」
「一々どもるなよ、そんなことで」
私の問いに固まってしまった椿くんに、達海さんが呆れたような声をかける。
スイマセン、と謝る椿くん。
「そんな、こっちこそ邪魔しちゃってごめんね」
「と、とんでもないっス」
背筋を伸ばす椿くんに、畏まるなよ、と達海さん。
「別にお前を見に来た訳じゃねえんだからさ」
「あ、は、ハイ」
少しホッとしたように表情を和らげた椿くんに、達海さんがニヒー、と少し悪い笑みを返す。
「ま、いつも通りやってていいよ。俺らは夜風に当たりに来ただけだから」
ヒラヒラと手を振って、椿くんに背を向ける達海さん。
私もじゃあね、と声をかけ、達海さんの後を追った。
「、こっちこっち」
見学者用のベンチにふんぞり返った達海さんが、手招きをする。
ポンポン、と自分の隣を叩くので、失礼します、と言ってそこに腰掛けた。
達海さんの目線は、グラウンドの方を向いている。
「…椿くんですか?」
問うと、またもニヒー、と笑う達海さん。
「こっから見ててみ。アイツ、面白いことになるから」
「……はあ」
何のことだか分からず、ただ曖昧に頷いてグラウンドへと目線を戻した。
「……あ」
さっきまで豪快にシュートを打ち込んでいた椿くんは、ドリブルをミスったりフリーのキックを空振ったりと、小学生でもしないようなミスを連発し出した。
隣では、達海さんが腹を抱えて笑っている。
「おーい椿ー、折角ギャラリーいるんだ、いいトコ見せろよー」
更には野次まで飛ばす始末である。
「…あの、達海さん」
「面白いだろ?アイツ」
そう言った達海さんの声は、しかし、真面目な響きを含んでいて。
「俺も、現役の頃さ」
現役、という言葉が達海さんの口から出てきたことに若干の驚きを隠せず、私は達海さんの横顔をまじまじと見つめた。
「似たようなことやっててね」
懐かしんでいるのか、見守っているだけなのか、遠くを見るように目を細める達海さん。
「ま、あんなに酷くはなかったけど」
そう言うと、こちらを向いて、ニヒー、と子供のように笑った。
「おーい、椿ー」
立ち上がった達海さんが、グラウンドの方へ声をかける。
「俺ら、もう行くから。あとちゃんと片しとけよー」
ホッとしたような表情の椿くんが、ウッス、と元気の良い返事を返した。
「はー、どっこいしょ」
オヤジ臭い掛け声と共に、達海さんがベッドに腰を下ろす。
「目、覚めましたか?」
ページ順に整えた資料を差し出すと、まあそれなりに?と達海さんが曖昧に首を捻った。
「遅くまで、大変ですね。いつも」
「んー?まあ、これが仕事だしなあ」
迷わず返ってきた言葉に、ああやっぱりこの人は監督なんだなあ、と改めて認識させられる。
小さなテーブルの上には、スナック菓子と炭酸飲料、テレビのリモコンと、床にまで散らばった何枚もの資料。
時刻は、夕飯には既に遅すぎるくらいの頃合いで、これから達海さんは、夜通しここで一人格闘するのか、と思うと、胸の奥の奥で何かがきゅっと締め付けられるような感覚がした。
「じゃあ、達海さん。私はこれで」
けれどこの段階に入ってしまうと、先日のように私が手伝えることは殆どなくて、私に出来ることは、せめて邪魔にならないように退出するくらいだ。
未だ受け取られていなかった資料をスイ、と差し出すと、唐突にその手首を掴まれた。
「達海さん…?──あ、」
そのまま、ベッドへと引き寄せられて。
突然のことに対処のしようもなく、手に持っていた資料の束が、再びバラバラと宙を舞って落ちた。
「………たつ、みさん?」
気づけば、ベッドに向かい合わせに横たわる格好で、私は達海さんに抱き締められていた。
─何が起こっているんだろう。
先ず脳裏を掠めたのはその疑問で、達海さんがこうした理由も、その相手が私である理由も、さっぱりわからなくて、私は身を捩って達海さんの顔を覗こうとした。
「あの、達海さ…」
それを遮るように、背中に回された達海さんの腕が束縛を強めた。
見ようとした達海さんの顔は、私の肩口に埋められていて。
「───…えー……と」
鼓動が速いのは不意打ちにこんな体勢だからで、それ以上の意味はない。
少なくとも、自分では認識していない。
仕方がないので壁のシミにぼんやりと焦点を合わせていると、くぐもった達海さんの声が耳元で聞こえて、首筋に熱い息がかかった。
「───…が…」
「え…?」
「─…膝が……痛いん、だ」
そう言った達海さんの声は、初めて聞くような響きで。
私の背中をがっちりと抱え込んだ腕は、少しだけだけど小刻みに震えていた。
「…達海さん、あの、それは…」
話には聞いていたから一応は知っている。
昔怪我をして、今も定期的に病院に通っているという、達海監督の足。
「い、痛む…んですか?大分?」
「……うん。痛い」
「えっとどうしよう…先生…はもう帰っちゃったし……そうだ、病院。救急外来に連絡しましょうか?」
「いや、いい」
「でも、そんなに痛いんじゃ」
「…いいんだ」
私の提案に、達海さんはただ首を振って、拒否の意を示した。
「………」
静か、だった。
クラブハウスにも多分もう、殆ど人は残っていなくて。
外にいるのは自主練をしている椿くんだけで。
ドアを閉めきった達海さんの部屋の中は、時計の秒針の音だけがゆっくりと、響いている。
「…多分」
どれくらい無言でそうしていたのか、暫くすると、達海さんがぼそりと低い声で話し始めた。
「メンタル的なものだと、思うから」
─メンタル。
いつもボーっとして、いつも楽しそうに笑ってて、子供みたいな悪戯ばっかりして、でも『監督の顔』をしているときはすごく、真面目で。
そんな達海さんの口から、弱々しい声で、そんなことを、言われて。
「─お薬とかは、あるんですか?」
それでも私は、自分でもちょっと驚くくらい、冷静だった。
「──いや」
達海さんが、首を振る。
「医者にも診せてるし、やることはやってる。でも、これはそういうんじゃなくて」
達海さんが、遠慮がちに、膝を私の方へ寄せた。
私は、そこから動かなかった。
達海さんの膝が私の膝にコツンと当たって、それから、両膝の間をやはり遠慮がちに、達海さんの膝が侵入してくる。
抱き締められたまま、互いの足が絡み合う形になって、
それでも私は、そこから、動かなかった。
「たまに、さ」
くぐもった達海さんの低い声が、耳に響く。
「昔のこと思いだしたりとか…そういうとき、痛み出すんだ。膝が」
ぎゅ、と達海さんの足が、私の足に絡みつく。
「こればっかりは、医者に診せても、どうにもなんなくて」
達海さんが、吸い込むように、私の肩口に頭ごと埋めた。
「……痛い、んですか?」
聞きながら、空いている手で、私は達海さんの癖のある髪に指を通した。
そのまま、抱え込むようにして、達海さんの頭を撫でた。
「うん。すごく痛い」
泣きそうにも聞こえる声で、子供のように達海さんがぽつりと零す。
私は、達海さんの頬に自分の頬を寄せて、達海さんの後頭部をゆっくりと撫でた。
「──今だけ」
達海さんが、私の撫でる手を拒否するでもなく、そのままの体勢で、さっきより少しだけ聞き取りやすい声で、言った。
「もう少しだけでいいから──こうしててくんないかな」
打診のような物言いに反して、達海さんの両腕は、どうあっても逃さない、とでも言うように堅く、私の背中を捕らえていて。
「─……はい。」
答えた私の声は、自分でも少し驚くくらい、あっさりとそれを受け入れていた。
+++
たまたまそこにいたからなのか、そうでないのかは、知るべくもなく。
120215