「失礼する」
「──あ…」
それは、開店後まもなく。
通信鏡を磨き終えたの元にやってきたその日一人目の客人は、黒田官兵衛その人だった。
失せ物探し
「官兵衛さん、お早うございます。いらっしゃいませ」
「お早う」
努めて快活に挨拶をすると、官兵衛は軽く片手で制し、今日は客ではないのだ、と言った。
「急で恐縮だが、私の玉を見なかっただろうか」
「…えっと」
直ぐに何のことだか思い至ったが、一瞬の逡巡を疑問符と取ったのか、官兵衛は両手で球の形を作ってみせた。
「翠峰導球…つい先日まで使っていた、緑色の玉だが」
ああやっぱり、とは心の中で呟いた。
「っさーん」
いつも以上に上機嫌な竹中半兵衛がやってきたのは、数日前のことだった。
「こんにちは、半兵衛さん」
何かいいことでもあったんですか、と聞くと、半兵衛はふっふーんと愉しそうに鼻を鳴らした。
「じゃーん。見て見て!」
そう言って彼が帽子を取ると─半兵衛が帽子を取ったのを見たのはこの時が初めてだった─形の良い頭の上にちょこんと、小さな客人が行儀良く収まっていた。
─にゃあ。
愛らしい鳴き声を聞いて、の顔も綻ぶ。
「…わあ、可愛い。どうしたんですか、この子?」
「こないだ迷子になってたのを見つけてねー」
連れてきたんだー、と説明しつつ、半兵衛はそっと猫を下ろした。
猫はキョロキョロと辺りを見回しながら、ちょこちょこと二人の間を歩きまわる。
「野良、にしてはいい子にしてますね。躾けたんですか?」
がしゃがむと、猫は人懐こそうに寄ってくる。
「そういう訳でもないんだけどねー。ほら、こんなところで一人ぼっちだったからさ」
寂しかったんじゃないかな、と何でもないことのように滑らせる半兵衛。
その言葉には、自分がこの世界に来た時のことを思い出す。
ここに拾われるまで、禍々しい空と荒涼とした大地に途方に暮れていた、あの頃。
猫を見ると、の手に撫でられて喉を鳴らしている。
あるいはこの子も、自分と似たようなものなのか、とは共感とも同情ともつかぬ感情を覚える。
少なくとも今は、自分もこの猫も、独りではない。
「ふふ、じ・つ・はー」
含み笑い気味に発せられた半兵衛の声に、顔を上げる。
彼は懐から、見覚えのある球を取り出した。
「あ…それ、官兵衛さんの」
の早い理解に、うんうん、と満足気に頷く半兵衛。
「官兵衛殿、最近新しい玉を買ってさ」
言いつつ、猫の前にそれを置く。
ごとり、という重厚な音が床に響いた。
「用済みの道具を後生大事に取っておく感じでもないでしょ、官兵衛殿って」
それはまあ確かにそうかも知れない、とは官兵衛の顔を思い浮かべた。
「だから、貰って来ちゃった」
悪びれず、そう言うものだから。
てっきり、当の官兵衛から譲り受けたものなのだとばかり思っていた。
「心当たりはないだろうか」
官兵衛の声で、回想から引き戻される。
は、少し目線を泳がせた。
─この子にも玩具が要るでしょ?
半兵衛の言う通り、猫は大層あの玉を気に入ったようで、終始嬉しそうにじゃれついていた。
「あの…大切なものなんですか?」
極力言葉を選んで、問うてみる。
いや、と官兵衛は頭を一度、横に振った。
「先日、新しいものを購入した。ゆえに、あれを必要とする理由は既にない」
そう言って懐から出されたのは、形、大きさこそ似たものなれど、緋色の玉だった。
艶やかな表面には、前の玉のような傷はまだ殆どない。
「ただ」
新しい玉に目を落としながら、官兵衛が続ける。
「これもいずれそうなるが─あの玉は、鬼の気に長く晒されていた。私以外の者が触れると、何かしら害がないとも限らない…いや、害が及ぶ可能性の方が高い、と言った方が正しい、か」
さっと、の顔から血の気が引いた。
「一息入れますか?」
朝から机に齧り付きの半兵衛の前に、茉莉花茶を淹れた茶碗を置く。
半兵衛の目が、香り立つ湯気の方へと向いた。
「…ありがと…」
答えた声は、生気に欠けている。
半兵衛は、茶碗を両手で包み持ったものの、しばらく口も付けずに湯気に顔を当てた。
やがて、はふう、と緊張の解れた吐息がその口から漏れる。
「はー、なんかちょっとだけ生き返った。いただきまーす」
茶葉の香りに癒されたのか、心なし上気した顔でこくこくと温くなったであろう茶を喉に運ぶ。
「お疲れ様です」
向かいに座り、も自分の茶碗に口を付けた。
「まったくだよ、もー」
不満気に漏らした半兵衛の膝に、先ほどまで玉と戯れていた猫がぴょんと飛び乗る。
「官兵衛殿もさ、猫に餌あげたりして優しいとこあるなーなんて思ってたら、これだもん」
猫の頭を撫でながら、半兵衛が薄目を開ける。
「その…何だか、ごめんなさい」
苦笑気味にが言うと、いやいや、と半兵衛は手をひらひらとさせた。
「さんは悪くないって。ああ来られたらそりゃ、言うしかないでしょー」
あの後─といっても、もう2日ほど前のことになるが。
玉の在処を尋ねた官兵衛に、堪らずは半兵衛の名を告げた。
『─そうか。感謝する』
今思えば、そう言ったときの官兵衛は、実に黒いオーラを纏っていた、ように思う。
「どうすれば効果的に相手の弱点を突くかって点に関しては、官兵衛殿の右に出るものはいないからね」
皮肉めいた口調で半兵衛が言う。
補足すると、あの時の官兵衛の言に嘘偽りはなく、翠峰導球はあの後、直江兼続の手によって浄化処理を施された。
だからこそ、今この場に当の玉が転がっていられる訳である。
ただ、黙って持ち出し猫の玩具にあてがった半兵衛には、官兵衛直々にキツイお灸が据えられた。らしい。
目の前の机にうず高く積まれた書簡の山を見てもその一端が十分過ぎるほどに伝わってくるが、半兵衛の様子を鑑みるに、彼女の与り知らぬところで更にそれはもう色々とあった。ようだ。
「それ、どれくらいかかるんですか?」
書簡を見つめながらが問う。
半兵衛はうんざりとした顔をそちらへ向け、
「あー、うん…どーだろうねー…」
考えるのも嫌だ、という風に机に突っ伏した。
勘違いでなければ。と、その頭を撫でたい衝動を抑えては考える。
半兵衛が自室でなくわざわざここへ足を運んで官兵衛からの『課題』をこなすのは、ほんのちょっぴりでも、を道連れにという思いがあるのではないか。
「お茶なら幾らでも淹れますし、肩がこったら揉んで差し上げますから」
「ありがとー…」
意識的ではないにせよ共犯ではあるのだし、何より。
猫と半兵衛の黄金コンビと同じ時間を過ごせるのはこれ以上ない役得であるなあ、と密かに喜ぶ気持ちは隠し、はお茶のお代わりを半兵衛の茶碗に注いだ。
+++
猫のくだりを聞いて、書かずにはいられなかった勢。
111228