「ところで、食欲ある?」
「ない…けど、何か食べないと…」
問うと、ベッドの上の彼女は、まだ少し苦しげに、呟くように答えた。
「うーんそうだねー。胃が弱ってるんだったら、消化にいいものか…」
「…透くん…」
「ん?」
名前を呼ばれて見下ろすと、彼女は申し訳なさそうに眉根を寄せた。
「ごめんね。部屋…」
言いかけた彼女の言葉には、汚くて、と続くのだろう。
入る前に予告されたほどではなかったけれど、女の部屋にしては確かに若干散らかっている気もする。

「いやー、全然?僕の部屋に比べたら全く気にならないって」
「…それはそうかも知れないけど」
こういうときに彼女が真顔で頷くのはいつものことだ。
初めの頃こそ、社交辞令ってものを知らないのかこの女は、なんて思ったりもしたのだが、慣れというのは怖いもので、今では余計な気を使わなくていい分楽だなとすら思う。
部屋が散らかっていようが気にならないのもそれと同じで、つまり僕は彼女を女として見ていないのだろう。
その割には、アパートの前で蹲っているのを見かけると、こうして無償で部屋まで送り届けるくらいはしてやったりもする。
まあ一応警察官だし、自分の住むアパートで何かあったら面倒だし。
ただ今日はどちらかと言えば機嫌がいいとは言えない日だったから、見かけたのが彼女じゃなくて他の知らない誰かだったら、もしかしたら素通りしていた可能性もないとは言えない。
まあつまり、それくらいの間柄ではあるんだろう。この辺について深く考えたことはない。何故って面倒だから。

「……あ」
「ん、何?食べたいものあった?」
思いついたように発せられた彼女の声に振り向くと、さんは、じゃなくて、と仰向けのまま首を振った。
「スーツ…着替えないと。皺になっちゃう」
出張帰りの彼女は、珍しい黒のパンツスーツ姿だった。
基本ゆる系な割にどうでもいいことに拘るのも、さんという女の特徴だ。いいのか悪いのかは僕には解らない。というか、まあどっちでもいい。

「少しくらいの皺は何とでもなるって。まあでも、とりあえず上着のボタンだけでも外したら?楽になるよ」
「…そう?」
「毎日スーツ着てる僕が言うんだから、間違いないって」
さんは、そうだね。と微笑んで、素直にジャケットのボタンを外した。

こんなとき、いつもヨレヨレな癖に、なんて自分でもツッ込んでしまいそうなことも彼女は言わない。
─そういえば。ついでにシャツの第一ボタンを外す彼女の指を、ぼんやりと眺めながら思う。
ネクタイが曲がってるとか寝癖がどうのとか、職場じゃ挨拶代わりに言われるようなことを(そして恐らくあのクソガキどもも、言わないだけで腹の中で思っているに違いない)、彼女の口から聞いたことは一度もない。ような気がする。
気を使っているのか、他人に興味がないのか、それとも僕に興味がないだけなのか。
理由は知らないし知るつもりもないけど、そういうことを言われない彼女との関係は楽だ。
僕が無償で他人の看病なんて似合わないことをしているのも、その辺が理由かも知れない。

「ん?もう起きれる?」
少し楽になったのか、さんが上体をゆっくりと起こし始めた。
「うん…大分良くなった、みたい」
「えっと、とりあえず何か飲む?って、何があるのか知らないんだけど。冷蔵庫見ていい?」
「うん、えーと…麦茶がまだあったような」
「あったあった。麦茶発見伝」
「…麦茶って別に珍しくないじゃん…」
「いーじゃん別にさ。僕、一日一回これ言わないとカビちゃうんだって」
「それどんな体質…」
弱ってても、軽口の応酬には律儀に付き合ってくれるのは、彼女の美点だろうと僕は思う。
って言うと、それ要は自分に都合がいいだけじゃん。とか言う奴が必ずいるよね。
所詮人間の価値基準なんて自分本位でしかないんだよ。そう吐き捨ててやりたいのを堪えて、僕はいつもへらへら笑ってやり過ごす。

そんなくっだらないことを思い出しながら、麦茶のポットを冷蔵庫から出した。
当たり前だけど、彼女の冷蔵庫は僕のよりは確実に充実していた。
食材や調味料はもちろん、オカズの作り置きらしきタッパーまでがちらりと見えた。
麦茶をコップに注いで渡すと、ちびちびとさんが喉を潤す。
「夕飯、食べれそう?」
聞くとさんは、うーん、と少し考えてから、消化に良さそうなものならと答え、更にぽつりと続けた。
「お粥かなぁ…」
お粥ってどう作るんだっけ?少なくとも、僕は作ったことがない。
だからそこはさらっと流して、代替案を提案する。
「お粥かー。定番だねえ。そこで敢えて僕としては10秒チャージをオススメするんだけど」
「ああ、それでもいい…けど、買い置きもうなかった気がする」
「ウチはまだ結構あるよ。持って来るからちょっと待ってて」
「え、」
「起きられるようなら、その間に着替え済ませちゃえば?」
そう言って立ち上がると、彼女は頭が上手く回らないのか、ポカンとした顔で僕を見上げていた。
「どうしたの、さん?」
ひらひらと手を振って見せる。ややあって、はっと我に返ったように、彼女は瞬きを二回した。

「いや…そんな、わざわざ持ってきてくれるなんて」
「いやいや、部屋、隣だから」
「でも、透くんの貴重な備蓄食料を一時的とはいえ借りるなんて」
さんは知らないかも知れないけど、僕の部屋にはカップ麺も、レトルトカレーだってあるんだよ?」
「全部非常食じゃん…」
「しょうがないでしょ。僕、お粥の作り方なんて知らないんだから」
「いや、もちろん自分で作りますけども…」
間の抜けた返事だなあ、と呆れながら、立ち上がりかけた彼女の肩を軽く押し戻す。

「なーに言っちゃってんの。病人は寝てなさいって、子供の頃言われなかった?」
子供に言い聞かせるように(まあ子供の扱いなんて知らないんだけど)言うと、さんは、またポカンとした顔に戻ってしまった。
「…言われた。けど、いまは子供じゃない…」
計ってないけど、もしかしたら熱もあるのかも知れない。さっきからさんは、いつも以上にぼんやりとした返事ばかり返してくる。
なんだかなぁ。思わず呆れ顔になる。

「今日は子供でいいよ。僕もまあ、一晩くらいなら保護者になるのもやぶさかではないしさ」

言って、さんの柔らかい髪を撫でた。
何やってんだろうな、自分。我に返ったら死にたくなるかも知れないから、今はこれ以上深く考えないでおこう。
暫く黙って撫でられていたさんは、やがて僕を見上げたまま、ぽつりと。
「…それは……割と不安なんだけど」
さんってさ、ホント時々ナチュラルに失礼だよね」
まあ、その失礼な女の世話を態々買って出てる今日の僕も、我ながら相当物好きだなとは思うけど。

「着替え、急がなくてもいいよ。僕もついでに着替えてくるから。あと、自分の分もついでに何か持ってくるし。って言ってもカップ麺とかだけど」
集る気がないことまで念押しして、僕は今度こそ玄関へ足を向けた。

「……透くん」
さっきよりはっきりとした声が追い掛けてきたから、立ち止まって振り返る。
どうせ、面倒臭がりな僕がこんなことまでしてくれるなんて、とか思ってんのかな。
それとも妥当に、こういうときは『ごめんね』かな?
振り返るまでの一瞬に、幾つかの可能性が頭を過ぎったのだけど。


「──ありがとう」

帰ってきた言葉に、一瞬、動きを止めてしまった。

「…透くん?」
「ん?あーいや、どういたしまして」
冷静に考えれば、この場面で言われても何の違和感もない言葉。
だけど例えば堂島さんだったら『済まんな』だろうし、僕だったら『悪いねー』って言う。
堂島さんの甥っ子なら『すみません』かな。
ああ、菜々子ちゃんなら言うかも知れない。でも生憎僕はあの子に感謝されるようなことはしたことがないから、当然言われたこともない。
そもそも感謝の言葉なんて、最後に誰かに言われたのはいつだったっけ?
そう思った後、直ぐに思い出した。最後にその言葉を僕に言ったのもさんだったっけ。
その前も、その前も多分彼女から聞いてる。
─じゃあ、彼女に会う前は?


「─そんなこと言ってくれるの、さんだけだよ」

思い出せないな。
まあいいか。どうでもいいことだし。


「…そんなこと?」
私何か言ったかな、とでも言いたげに、さんが首を傾げた。
「『透くんは優しくて頼りになるいい男だなあ』ってさ」
「言ってないし!」
彼女が笑う。
つられたフリをして、僕も笑った。







+++
【ありがとう】

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