「それじゃ、さんの快気祝いってコトで、かんぱーい!」
奢りのビールが嬉しいのか元気の良い透くんの声に合わせて、私はビールの缶を彼のと合わせた。
彼はごくごくといい音を立てて飲み(あれは恐らく一口で3分の1くらいいったと思う)、ぷっはーと満足そうに息を吐いた。

「そういえば今更なんだけどさ、もうお酒飲んでいいの?」
同じく一口目(こっちは本当に一口だった)を終えた私に、本当に今更な問いを投げる透くん。
「平気。お医者さんのお墨付きも貰ってます。もちろん、いきなり無茶は出来ないけど」
答えると、そりゃーよかった!と、透くんはご満悦そうな笑みで頷いた。
「僕の甲斐甲斐しい看病のお陰だねー」
「そうだね」
私はいつものように流すこともせずに、素直に頷く。そして、頭を下げる。
「この度は本当にお世話になりました。ありがとう」

顔を上げると、透くんは、一瞬目を見開いて、瞬きをし、そしてその後、軽く顔を背けて何ともいえない、若干皮肉めいた苦笑を浮かべた。
「─いい加減慣れてきたよ…うん」
「何が?」
聞き返すと彼は、それには答えずに。
さんって天然だよねえ」
「褒めてないよね?それ」
少し憮然と言い返すと、今度はへらりと笑う。
「いやーいい意味でだって。いい意味で」
「透くんさ、とりあえず『いい意味で』ってつけとけばいいと思ってるでしょ」
そんなことないってー心外だなぁーと笑い、透くんはぐいとビールを煽った。


私は透くんという人を未だに掴み切れていないから、これはあくまで想像でしかないのだけれど。
彼は、面と向かって礼を言われるのが少し苦手な人なのかも知れない。そう思うことが、今までにも何度かあった。
それは何となく解る。私自身はそういうのがあまり気にならない性質だけど、大人になると、子供の頃には無邪気に表現出来たことが上手く出来なくなったりする。
それは気恥ずかしさとか何だとか、理由は人それぞれなんだろうけど、一般的には大人ってそういうもの、で世の中通ってたりする。

で、そんな『面と向かってお礼を言われるのが苦手』だと知ってる相手に敢えてそれをしたのは、別に嫌がらせではない。

帰宅途中に力尽きて透くんに手間を掛けさせたのが1週間ほど前の話で、一晩寝れば回復すると思っていたところ、その後3日も寝込む羽目になった。
丁度休日に被ったから、丸々仕事を休むなんて事態にならなかったのが不幸中の幸いだが、曜日感覚の希薄な職業である彼が、相棒の堂島さん宅でポロっとそれを零したのが事の発端。
その堂島さんの愛娘の菜々子ちゃんが、『お父さんのお仕事の人』の、そのまた更に『お隣さん』でしかないただの顔見知りの私を、見舞いに来ると言い出したらしい。
これには流石に娘に甘い堂島さんも、やんわりと菜々子ちゃんを止めた。そうだ。
聞き分けの良い菜々子ちゃんはあっさり頷いたが、形の良い眉を八の字に下げ、あの愛くるしい声でいたく心配そうな声を漏らした。らしい。
重くなりかけた場の空気に、透くんは言いだしっぺとしての責任のようなものを感じたのだろう。
『だーいじょうぶだって、菜々子ちゃん。さんにはこの僕がついてるんだから!』
勢い以上のものはない台詞だったのだろうが、自信満々に言い切った手前なかったことにすることも出来ず、私の熱が下がるまで、透くんは毎日仕事帰りにジュネスの袋を提げて私の部屋へ寄る羽目になった。

私だってもういい歳だ。寝込んだからって自分の世話くらい自分でなんとかなるし、堂島家に後ろめたいと言うなら適当に話を合わせるくらいのことは出来る。
透くんは基本面倒臭がりな割に、変なところで律儀…というのもまた違う。人目を気にする、というか、言葉は悪いけど小心者?
まあ、この辺りは私も人のことは言えないのだけど。

とにかく、成り行きとはいえ、何だかんだ世話を焼いて貰って非常に有難かったことは事実なので、礼だけは言っておきたかった。
親しき仲にも礼儀あり、というか。
でも、それ以上に私の勝手な自己満足も含まれているから、そう考えてみればやっぱり彼にとっては、嫌がらせのようなものかも知れない。
まあいいのだ。
そんなことを一々気遣っていたら、透くんという人とマトモに付き合うことなんて出来やしない。


「でもさ、やっぱり僕の言った通りだったじゃない?」
ほろ酔い加減の声で、回想から引き戻された。
「え、何?」
「ホラ、いつだったかな─そうだそうだ。確か10日くらい前の日の朝だよ。曇ってたっけ」
「箸で指さない」
思わず、箸の先をこちらに向ける様を指摘すると、透くんは拗ねたように口を尖らせた。
「もー、固いなぁさんは。堂島さんと同じこと言うんだから」
「だって気になるんだもの。それで?10日前が何?」
話を戻すと、そうそう。と透くんは箸を器用にくるくると玩んだ。一々指摘するのも面倒になって、まあいいか、と私は目を瞑ることにした。
さんえっらい白い顔してたからさー、僕言ったんだよね。『あんまり無理しない方がいいと思うよー』ってさ」
そういえばそんなこともあっただろうか。おぼろげな記憶を手繰ろうとする。
「そしたらさ、さん、『まだ大丈夫だよ』って言ったんだよ」
「んー、言った…かな?」
言った記憶はなくもないが、最近は口癖のように言っていたような気もするから、誰に言ったかなんて一々覚えていない。
「言った言った。だからさ、ぶっ倒れたの見て僕先ず思ったね、『やっぱ大丈夫じゃなかったじゃん』って!」
─もースゲーツッコみたかったんだけどさ、そこはホラ流石に、ね?
嘲るようにケラケラと笑う透くん。
まぁ、それに関しては返す言葉もないので腹も立たない。よくそんな他愛もないことを覚えているものだと、逆に感心すらする。
「透くんって記憶力いいよねえ」
「そりゃそうだよ。何たって刑事だからね!」
ズッコケ刑事と陰で高校生にあだ名されている(敦也くんから聞いた)彼は、自慢げに鼻を鳴らした。

「まぁ…アレだよねぇ。つまりさ」
ひとしきり笑うと、彼は箸を置いて2本目のビールを空けた。
「『大丈夫』なんて、そう軽々しく口にするモンじゃないってコトだね」
そうして、生徒に諭す先生のような口調で言う。
「それ…透くんには言われたくない気がする」
「えぇー?何で?」
さも心外と言わんばかりに目を見開く彼に、だって。と私は付け足す。
「透くんこそ、いつも口癖みたいに言ってるじゃない。『大丈夫大丈夫』って」
正確には、『だーいじょうぶ、だいじょうぶ』なのだが。
すると。
透くんは、ビールを煽りながら、横目でちらりとこちらに視線を投げた。

さん、知ってる?」
「?」
「『大丈夫』に『まだ』がつくとヤバイ─って話」

─そもそもさ。
私の答えを待たずに、透くんは続ける。
「『まだ大丈夫』と『もう駄目』の境界線って、どこにあると思う?」

「それは…」
彼の言葉の意味を、頭の中で考えてみる。
「例えば、さ」
答えを出す前に、透くんが問題を追加した。
「さっき、コレ作ってくれたじゃない?」
そう言って彼が箸で摘んだのは、つまみに用意した野菜炒め。
透くんの冷蔵庫から余り物を拝借して、適当に塩コショウで味付けただけのものだ。
「まあ、作ったってほどじゃないけど」
「いやー、十分だって。こういうのささっと作ってくれる女の人ってさぁ、イイと思うよ」
言葉とは裏腹に大して関心もなさそうな表情で、透くんは言う。
「ま、それはともかくさ。このキャベツ、結構キてたでしょ?」
箸で器用にキャベツだけを摘み上げながら、少しとろんとした目付きで、透くんはこちらを見る。
「うん、かなりね」
冷蔵庫の中の状態を思い出す。
安売りに弱い彼がジュネスで買ったのであろうそれは、もう何日前に仕入れたものだかあまり考えたくない有様だった。
丸ごと捨てるのも何だからと(何だかんだで私も貧乏性だ)、かろうじてまだ食べられそうな部分だけ千切って炒めたのが、目の前のモノ。
「これ見たとき、さん、これは『もう駄目』だって思わなかった?」
うん、美味い。と呟きながら、透くんはキャベツを口に運ぶ。
「うん、思った」
「僕はさ、『まだ大丈夫』だって思ったから、置いといたんだよねー」
「…透くんの『まだ大丈夫』はアテにならないよ。いつも」
それで食材を駄目にしているのを、何度か目撃している。
「うん。それ、僕もさんに対して思ってるんだよね。いつも」
そう言って試すようにこちらを見た透くんが何を言いたいのかは、直ぐに解った。

「──まあ…確かに」
いい歳してキャベツの鮮度と同列に並べられてしまうのは悲しいものがなくもないが、あながち的外れでもないから反論は出来ない。
「個々人で基準が違うから、難しい問題だよね」
─ちょっと極論だとは思うけど。
でもキャベツと同じ括りにされたのはやっぱり少し悔しかったから、小さく付け加えておいた。
「というより、さ」
透くんが、今度は箸ではなく、親指と人差し指で拳銃の形を作ってこちらを指す。
「要は、境界線なんて言ったけど、結局は曖昧で、あってないようなモンなんだって話」
そう言って、照準を合わせるように、指の隙間からこちらを覗き見る。

お酒が回ってくると、透くんは饒舌になる。
素面でも舌はよく回る方だけど、その実肝心なことはいつだって言わないのが透くんだ。
けれど酔うと─どちらが素なのか私には解らないけれど─本音のようなものをさりげなく混ぜることが、偶にある。
それだって、本当に本音なのかどうかなんて、もちろん私には解らないのだけれど。


「曖昧…か」
「そ」
反芻すると、透くんは短く頷く。
「まだ大丈夫、まだ大丈夫…そう言っているうちに」
いつもより少しだけゆっくりと言葉を紡ぎながら、覗うようにこちらを見上げた瞳が、一瞬だけ、別の色に光った…ような気が、した。
「いつの間にか、辺りには誰もいない。なーんにもない真っ暗闇……なんて、ね」
けれどそう見えたのはほんの一瞬で、自分も少し酔っただろうかと、私は軽く頭を振った。

「それは、怖いね」
とりあえず適当に相槌を打つと、でしょ。と透くんは既に赤くなった顔でへらりと笑った。
「─まあ、でも」
テーブルに顎を乗せて、透くんはこちらを仰ぎ見る。
「今回は──そうなる前に気付けて良かったね…って、ことで、さ。さん」
──『今回は』。
その言い方に、どこか薄ら寒いものを感じたが、彼なりの気遣いなのだと思うことにして私は頷いた。
「そうだね。今後は気を付けます」
「そうした方がいいと思うよ…ホントにさ」
言いながら缶を持ち上げ、あれ、もうないや。と呟くから、私は腰を上げて冷蔵庫を見た。
「新しいの持って来る」
「悪いねー。ってか、さんあんまり酔ってないんじゃない?」
ひらひらと手を振りながら、少し不満げに漏らす。
「透くんのペースが速いんだよ。それに、私は潰れる訳にもいかないし」
冷蔵庫を開けながら応じると、何でー?と透くんの声が背中からした。
いや、部屋戻らないといけないし。と答えると、いいじゃんいいじゃん、と間延びした声が返ってくる。
「潰れたら泊まってけばいいって。この前みたいにさ」
暢気な提案に、やだよ。と一蹴する。
「化粧も落としてないし」
つれないなー。と透くん。
あれは相当酔ってるな。


こうして透くんの部屋に上がるのは、初めてではない。
と言っても、何かがある訳ではない。
少なくとも今のところは、私は女として認識されてはいないらしい。
こちらも今のところは彼に何かを期待している訳ではないから、そういう透くんの態度はむしろ都合がいい。
そして、多分向こうも、私に対して同じことを思っている。

けれどこんなものは、所詮綱渡りのようなものだ。と、私は思う。
私も透くんもただの人間だし、人間同士の関係なんて、一つボタンを掛け違えれば何が起こるか解らない。
誰かと関係を持つということは、だからこそ価値があるものなのだろうけど、私も、そして恐らく彼も、今のところは─この関係が壊れることを望んではいない。
だからこれから先どうなるかなんて解らないけど、少なくとも今は、まだ。


「それに、また家主を床で寝かせるのも心苦しいしね」
─一緒に寝る訳にいかないんだからさ。
冗談めかして言うと、それはそうだねえ。と透くんも笑ったから、その手に冷えた缶ビールを渡したら、透くんの顔は赤いのに、手の体温は低かった。


うん、まだ大丈夫。







+++
【大丈夫】

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