今、僕の目の前には二つの箱と、一本のワインがある。
箱の中身はチョコレート。ジュネスで売ってるようなものよりは凝った包装で、それらしいロゴが印字されている。
ロゴは、どこかで見たことのあるような─つまりは、有名ブランドのチョコレートっぽい。
これを持ってきたのは、僕の隣人だ。


事は、ほんの20分ほど前に遡る。
「透くん、チョコレートって食べる?」
そう言われて差し出されたのは件の小箱で、反射的に僕はそれを受け取った。
「──さん」
「何?」
「今日が何日か、知ってる?」
わざわざ聞いたのは。
2月は2月でも、少なくとも14日ではなかったから。
「そうじゃなくてさ」
苦笑混じりに、さんは手を横に振った。
「今日、沖奈まで行ってきたんだ。前からそこのチョコ気になってたから、ついでに」
おいしそうじゃない?と付け加える顔からは、特別な意味なんて微塵も読み取れない。
まあそうだよなあ、なんて思いつつ、何で僕に?と聞き返す。
「おいしそうだったから、透くんにもと思って」
答えになってない。まあいいか。
とかくさんという人は、お裾分けが好きなのだ。
「どうせなら一週間前にちょうだいよ〜。義理でもいいからさ」
冗談めかしてそう言うと、さんはうん、と首を縦に振った。
「それも考えたんだけど」

─お返しとか、面倒でしょ?

「お裾分けしたかっただけだから。何もない日に渡した方が、気兼ねないじゃない」
その言葉に、僕は。
「─でも色気はないよねー」
この人はどこまでもお人好しだなあ、という言葉を、寸でのところで飲み込んだのだった。



そして、今。
「ワインはよく分からないから、適当だけど」
自室からワインオープナーを持って戻ってきたさんは、僕にそれをハイと渡してきた。
ラベルに猫の絵が描かれている白ワイン。原産国はドイツ、らしい。
僕だってワインなんか詳しくない。
コルクにオープナーを突き刺す。

さんの買ってきたチョコレートは二人分で、彼女は僕に一つを渡したあと、自室で一人ワインのアテにするつもりだったみたいだけど、そこを僕が部屋に誘った。
深い意味はない。何となく、僕も飲みたい気分だったのと、どうせ飲むなら誰かと一緒がいいと思っただけだ。

さんが箱を開ける。
トリュフやら色んな形のチョコレートが、小さな箱に行儀良く収まっている。
丁度ワインの蓋も開き、僕はテーブルに置かれた2つのグラスにそれを注いだ。




さーん」
「……んー…」
5時間後。
無防備に床に丸まった彼女の肩を軽く叩くと、返事ともつかない声が返ってきた。
あのあと。
ワイン一瓶は二人で飲むと思いの外直ぐになくなり、次の酒にと部屋にあったウイスキーを持ってきたのが不味かったらしい。
さんは酔うと、ペースが早くなる。
ロックで注いだウイスキーを水代わりと言わんばかりの勢いで空ければ、潰れるなっていう方が無茶だ。
まあ、面白がって止めなかった僕も僕だと言えば、そうだけど。
「せめてー、ベッドに行きなよぅ。風邪ひいちゃう、よ?」
僕も付き合って大分飲んだ。
いまいち呂律の回らない舌で移動を促す。
目の前の女性からは、大丈夫、とかろうじて聞き取れる返事が返ってきた。

─どうしたもんかな。

放っておけばいいのかも知れないけど、僕の部屋で風邪なんてひかれても寝覚めが悪い。あと一応女性だし、床に転がしたままは忍びない。
担いでベッドまで運ぶことも出来なくはないけど、ちょっと今僕も、足元覚束ないんだよなあ。
さーん」
耳元で名前を呼ぶと、その口から吐息が漏れた。

こういう事態を想定しているのかどうかは、知らないけど。
飲むときのさんは、多少の乱れは何ともない格好でやってくる。
つまり色気に欠けるってことなんだけど、僕としてもその方が気楽だ。
こうやって寝乱れても、露骨な肌の露出はない服装。
最低限整えただけの薄い化粧。
ただ、柔らかそうな黒髪が、ほどけるように床に散らばっている。
香水や整髪料の匂いはしない。
さらさらとした一房に、知らず僕の手は伸びていた。
柔らかい感触。顔を近づけたら、仄かにシャンプーの香りがした。

すう、と。規則的な息遣いが、僕の頬を掠めた。
多分このとき、僕は相当酔っていたんだろう。
親指で、彼女の唇をそっとなぞっていた。
彼女が軽く、身じろぎをする。
遮るように、彼女の顔を両手で挟んだ。

─あ、チョコついてる。

彼女の唇の端についたそれに、磁石のように引き寄せられる。
「…ん……」
彼女の息が自分の唇にかかって、ようやく我に返った。
顔を離す。
見下ろすと、さっきと同じように、無防備な寝顔を晒したさんがいた。
唇の端のそれを軽く指で掬うと、彼女が軽く眉を顰めた。
その指を、僕は、そっと舐めた。
「……甘い、なぁ」
呟きは虚空に吸い込まれて。
僕は、僅か中身の残ったグラスを一気に空けた。







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【チョコレート】

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