「自分の中にさ、別の自分がいるって感じたことある?」
コーヒーを啜りながらさんが言ったのは、そんな言葉だった。
「何それ。えーと何だっけ、あれ?中二病ってやつ?」
「─まあ、否定は出来ないんだけど。そんな大それた話でもなくて」
茶化すと、さんは苦笑しながらカップを置いた。
「自分って、一人じゃないじゃない」
「…多重人格とか?さん、ウチで精神鑑定受けてみる?」
いつもの彼女らしからぬ言動の数々に、少し覗き込むようにしてまた茶々を入れる。
そういうんじゃなくてさ、とさんが首を振る。
「誰にもあることだと思うんだけど。色んな自分がいる訳じゃない」
「──ああ…」
ようやく意図を理解して、僕は頷いた。
「例えばホンネとタテマエとか、そういうの?」
「そうそう」
さんが、今度は仄かに微笑んで首を縦に振る。
なあんだあ、と僕は大げさに呆れた顔をしてみせた。
「てっきり、仕事のしすぎで病んじゃったのかと思ったよー」
「あはは。言うほど働いてませんので」
さんが軽く笑い飛ばして、再びコーヒーを口に運ぶ。
「─で?それがどうかしたの?」
自分もコーヒーに口をつけながら、僕は尋ねる。
軽快な口ぶりをして見せながらも、心のどこかに別の感情が渦巻いていた。
さんは、うん、と少し口ごもった後、カップに目を落としたまま言葉を繋いだ。
「皆─大人になってく過程でさ」
さんの手が少しだけブレて、カップの水面が揺れる。
「そういう、自分の中の『自分』との付き合い方を、会得していくでしょ?」
「まあ、そんなもんだろうねえ」
内心を悟られないようにへらりと笑みを作りながら、僕は抑揚なく答える。
さんが、下を向いたまま、口を自嘲の形に歪めた。
恥ずかしい話なんだけど、と前置きする。
「私、そういうのが下手でね」
僕の中の『僕』が、むくりと頭をもたげる。
「あー。まあねえ。さんて、その辺器用じゃないよねえ」
指をさして笑顔で答えると、さんは苦笑で返した。
「何?何か悩み事?僕で良ければ聞くよ?」
聞いたところで何も出来やしないけどね、と心で呟く。
さんは、うーん、と困ったように首を傾げた後、
「悩みっていうか。参考事例を聞きたいというか─透くんは例えば、どうなのかなって」
僕に目線を合わせて、そう言った。
─ああ、参ったね。
心の表面上でそう思いながら、もう一人の『僕』は裏腹に、興味深げにさんを舐め回すように見ている。
「何ー?珍しく、真面目な話っぽいね」
内心を隠して茶化してみると、さんはいやいや、と片手を振った。
「雑談みたいなものだよ。たまにはこういう話も悪くないかなってだけなんだけど…透くんは嫌いかな」
逆に僕を茶化すように、さんが言う。
んー?と僕は頭の後ろで腕を組んだ。
「好きも嫌いも、そういうのってわざわざ話題に上げることもないからさー」
苦笑すると、さんは、確かにねー、と相槌を打った。
「でも、さ」
カップを置いて、僕は出来るだけ軽い調子で言葉を繋いだ。
「何かあるんなら言っちゃいなよ。僕、こう見えて口は堅いし」
「説得力ゼロなんだけど…」
「えー?そういうこと言っちゃう?」
酷いなあ、と僕は笑う。
─ほら、見せてみろよ。
僕の中の『僕』が、目の前の女を挑発する。
─お前もどうせ、同じなんだろ?
「冗談は置いといてさ。これでも一応、話聞く気はあるんだよ?」
何て言っても、と僕は続ける。
「さんって、放っとくと危なっかしいしさ。僕なりに心配してるんだって」
彼女は何度か瞬きした後、またも自嘲気味に苦笑した。
「透くんに心配されちゃうようじゃ、私もそこそこマズイね」
「さらっと失礼だよね!?」
軽口で返すと、さんはごめんごめん、と笑った。
「冗談です。透くんは、私よりもしっかりしてるもんね」
思わず、鼻で笑いそうになるのを堪えた。
「ていうより、さんが抜けてるだけだって」
「そこはお互い様じゃない?」
「敢えてツッコまないで続けるけど、さんのはホラ、何て言うか抜け方が致命的なんだよ」
さした指を上下に揺らしながら言い切る。
さんは、否定出来ない、というように苦笑した。
「透くんてさ。見てないようで、見てるよね」
「そりゃ、刑事だからね」
「頭脳派の?」
「その通り!分かってきたねーさんも」
軽快に答えると、さんは可笑しそうに笑った。
─そんなこと、どうでもいいからさ。
「で?」
真顔に戻って水を向けると、さんがこちらに視点を合わせる。
「『もう一人のさん』て、どんななの」
─ホラ、はやく。
「───」
さんが、綺麗な微笑を向けた。
内心を見透かされたようで、僕は少しだけイラっとする。
ここじゃまだ駄目だ、と表の『僕』が理性で抑える。
「─私ね」
さんが、目線を少しだけ落として、ぽつりと口を開いた。
「透くんには大概、情けないトコもだらしないトコも見せちゃったと思うけど」
「うん、見ちゃってるねえ」
頷くと、彼女はまた苦笑した。
僕の心臓が、一瞬だけ跳ねる。
彼女のその表情を見た瞬間、頭の中に声が聞こえた気がしたからだ。
─『サミシイ』。
僕の内心に気づくことなく、さんが再び口を開く。
「…多分。私の根っこの部分を知ったら、流石の透くんもドン引くと思う」
「何それー?さん、やらしいことでも考えてる?」
思いっ切り茶化すが、意に反して彼女は真顔でうん、と言った。
「いやらしいことも、汚いことも、いっぱいあるよ」
─ああ。
僕は、ようやく気付いた。
彼女は、僕を『試している』のだ。
一歩、彼女が僕の『領域』に踏み込もうとする音が、頭に響いた。
「それで?」
頬杖をついて、僕は彼女の目を覗き込む。
発した声は、恐らく、冷たいものだったと思う。
「僕にそれを教えて、さんはどうしたいの?」
─言ってみろよ。
『僕』が、彼女への圧力を強める。
「─何も。」
さんは、微笑んだまま、言った。
─何だよ、それ。
『僕』が、声を少し荒げる。
彼女の微笑んだ顔は、『自分』をさらけ出そうとする人間のものとは思えないほど、綺麗だった。
「ただ」
彼女が、視線をまた落として、言う。
「何となく。透くんには、話しておこうかなって」
ピシリ、と『僕』の領域に、小さな亀裂が走る。
「─何で?」
答えた僕の声は、震えてはいなかっただろうか。
さんは、いつもの顔に戻って、はにかんでるんだか自嘲してるんだかよく分からない感じで笑った。
「多分、ね」
少し遠慮がちの彼女の声が、耳に届く。
「─誰かに聞いて欲しいときって、あるじゃない?それが」
─やめろ、よ。
『僕』が、拒絶するように一歩後退する。
「─今の私には透くんだ、って、多分そういうことなんだと、思う」
そう言って、さんは少しだけ、悲しそうに笑った。
「─ホント言うとね」
さんの声が、小さくなったのに、さっきよりも近くで響いてるようにはっきりと聞こえた。
「怖かった。透くんに引かれたらどうしようかなって」
─何で、笑えるんだ。
引き裂くような頭痛に見舞われ、僕は思わず顔をしかめた。
「─…は、はは」
乾いた笑い声が、僕の口から漏れる。
「─何で?仮に僕がドン引いたとして、それがさんに何かあるの?」
茶化したつもりが、言葉は詰問の響きを持って空気を震わす。
さんは、また少し寂しそうに笑って、だって。と言った。
「やっぱり、うーん、透くんとこうやって、何でもない話したり、お酒飲んだり、出来なくなったらさ」
「それは結構、嫌だなー、って」
─カシャン。
音を立てて、飲みかけのカップが手から滑り落ちた。
「わ、透くん、大丈夫?」
さんが、鞄からハンカチを取り出す。
店員が駆け寄ってきて、恐縮したような声で何か言いながら、落ちたカップとテーブルに広がったコーヒーの染みを片付ける。
「ああ!シャツに飛んじゃってる」
手元のお手拭きに持ち替えて、さんが僕のワイシャツに付いた染みを手早く拭く。
カップを片付けた店員は、また何事か言って僕たちから去って行く。
さんが、お礼の言葉を去り際の店員に投げかけた。
「うーん、落ちないなあ…透くん、家に漂白剤ある?」
至近距離のさんが、僕の胸元に触れたまま僕の顔を見上げる。
ぼんやりと目線を落としているだけの筈なのに、彼女の顔がやけにくっきりと目に映った。
「…透くん…?」
さんが、心配そうに首を傾げる。
「おーい、透く…──わっ」
ひらひらと僕の目の前で動いた細い手首を無造作に掴み、そのまま、昔柔道で教わった要領でその身体ごと引き寄せた。
「透、くん……?」
胸元から、さんのくぐもった声が、それでもはっきりと脳に届いた。
僕の頬を柔らかい髪がさらりと撫で、顔を埋めた首筋から、仄かな石鹸の香りがする。
柔らかいものが上半身に触れていて、その部分はやたら温かくて。
そこまで順繰りに認識をして、僕はようやく、自分がさんを抱き締めていることに気がついた。
「─ならないよ」
低い声で呟く。
さんが、え?と聞き返す。
僕はもう一度、今度は両腕を、彼女の背中に回し軽く力を込めた。
さん。僕は多分、小さな声で、彼女の名前を呼んだ。
彼女が、少し顔を上げた。
彼女の肩口に顔を埋めた僕からは、その表情は見えない。
「──もし、」
ないだろうな、と思いながら、僕は口にした。
「色んなことが、どうしようもなく嫌になったらさ──」
そこで、僕は言葉を止めた。
彼女は、多分、見えない僕の横顔に視線を向けて、僕の言葉に耳を傾けたまま黙っている。
「───いや。」
もう一度、僕は彼女の柔らかい身体を抱き締め、申し訳程度に見える肩口に鼻先を滑らせた。
「引いたりしないよ」
それだけを口にする。
透くん。とさんが呟いた。
─キミは来なくていい。
僕の中の『僕』を、─もう、どちらの言葉か僕にも分からなかったけど─あるべき場所へ押し戻して、僕は口に出さずに呟いた。
「──ありがと」
囁くようなさんの声が、痛いくらいに心地よく耳に響いた。
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【大人になる、ということ】
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