「ん……?」
聞こえるはずのない声が足元から聞こえ、は心臓が飛び出るほどに驚いた。
何とか平静を装って振り返ると、今しがたまで規則的な寝息を立てていたシンタローが、半身を起こしてこちらを見ていた。
「どうした…こんな時間に?」
眠い目を擦りながら、シンタローは暗闇に目を凝らした。
隣を見ると、少年と犬は未だすやすやと眠りの中のようだ。起こさぬようにと、小声で少女に問い掛ける。
窓から月明かりが射し込んでいるが、逆光になって彼女の表情は見えない。
少し困ったような間が空いて、の口から同じく小声が発された。
「あ、ええと…ちょっと、トイレ」

「……お…おう、そうか」
ガンマ団時代の習慣で、気配がすると目が覚めるように身体が出来上がっている。
保身のためには当然であるのだが、この平和な島においては却って邪魔になる場合もあるという事を初めて認識した。
更に情け無い事に、男ばかりの環境で育ったためこういう場合の上手い返し方を知らない。
「あの、直ぐ戻るから先寝てて」
沈黙してしまったシンタローを見て、慌てて付け足すようにが言う。
起こしちゃってゴメンね?と顔の前で片手を立てられ、シンタローは軽く頭を掻いた。
「あーその…気を付けて行ってこいな」
それを聞いて、ようやく安心したようには部屋を出て行った。ぱたん、と控えめな音とともにドアが閉められる。
「ふぁ…」
─用を足すだけなら、特に心配する事もないだろう。
小さく伸びをすると、シンタローは再び身体を横たえた。





「び…っくりしたぁ」
パプワハウスから目と鼻の先にある木陰に身体を滑り込ませ、は浅く溜息を吐いた。
まさかあそこで彼が目を覚ますとは、夢にも思っていなかったのだ。
(…気付かれて、ないよね?)
家の方を振り返るが、しんと静まり返っている。それを確認し、は今度こそ胸を撫で下ろした。
「………はぁ」
適当な樹の根元に腰を下ろし、空を見上げる。眩しいほどの月明かりと、満点の星空が視界を埋め尽くした。
どこまでも広がる空の、果ては見えない。
(この空の下の、どこかに…)
─自分の暮らしていた場所が、あるのだろうか。
思っては見ても、答が見つかる訳ではない。この島に流れ着いてから一月が経とうとしているが、未だ何一つ思い出せぬままだった。
昼間はいい。パプワやチャッピーと遊び、シンタローの手伝いをし、ナマモノ達と交流を深めている時間は、自分が何者であるかなどという問題を忘れていられる。
だが、夜は駄目だった。
「これで、何日目だっけ…」
シンタローと向かいになり、パプワとチャッピーを二人で挟むようにして床に就く。
やがて、三者三様の寝息が耳に届き………一人だけ、寝付く事が出来ない日々が続いていた。
暫くの間は月明かりに照らされた寝顔を眺めてやり過ごすのだが、その内抜け出せぬ思考の渦に飲み込まれてしまう。
そんな時、は決まって部屋を抜け出し、こうして夜空を眺めて心を空にするのだ。
それは、昼間彼らの前で笑っているために必要な行為だった。

「流石に…知られる訳には、いかないからね…」
パプワとシンタローの顔が、瞼の裏に浮かんだ。
得体の知れない自分に良くしてくれる彼らに、これ以上余計な心配を掛ける訳にはいかない。
今までもこれからも、決して悟られる事無く元気な姿を見せていよう。初めて布団を抜け出した夜に決めたことだ。
(…ぜったいに、見せちゃいけない…)
─こんな、情けない貌なんて。
溢れそうになる涙を隠すように、は膝を引き寄せて俯いた。


「─…?」

聞こえるはずのない声。弾かれたように、は顔を上げた。
「…シンタロー、さん?」
「随分遅いからよ、何かあったのかって…」
月を遮るように、目の前の人影が彼女を覗き込んでいる。
逆光で表情は見えないが、先程と違いはっきりと目は覚めているようだ。
居る筈のない人物の出現に少しばかり混乱したが、心配そうな声に平常心で返そうとは試みた。
「…あ、ちょっと夜風に当たってから帰ろうかと…」
よほど動揺したのか、その声は僅かではあるが裏返っていた。
見過ごされる程度の差異ではあった。だが、ガンマ団ナンバーワンの聴覚はそれを聞き分ける精度を持っていた。

「………オイ、どうした?」
「え?」
先程よりも語気の強い声に、逆にが驚いた。
(なんで?)
─“いつもみたいに”笑っているつもりなのに。
「…何かあったのか?」
腰を折って覗き込むシンタロー。
─さっき、上手く声が出せなかったからかな。
とにかく彼を安心させようと、は笑顔を造った。
(………駄目だ)
笑おうとすればするほど、頬の筋肉は強張る一方。彼の表情は見えないが、じっと見つめられている事だけは判る。堪らず、は顔を伏せた。
「──な…んでもない」
言ってから後悔した。
まるで説得力のない、単なる文字の羅列。自覚はあれど、自分ではどうする事も出来ない。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
場を切り抜ける術を考えれば考えるほど、その五文字しか浮かんでこない。
は混乱する頭で懸命に、思考を張り巡らせようと試みた。断片的な感情の欠片が、浮かんでは消える。
─見られた?
─気付かれた?


─…誤魔化さなきゃ。



「─ちょっと、目が冴えちゃって。星でも見てたら、落ち着くかなぁ、って」
次に顔を上げた時、は“いつもの”笑顔に戻っていた。
正確には、“少し前までの”彼女に。
(─馬鹿が)
シンタローは腰に手をやると、大仰に溜息を吐いて見せた。
「…あのさ」
「ん?」
先程の笑顔を貼り付けたまま、見上げる。シンタローは、腰を落とし彼女と目線を合わせた。


「俺の前では、ガマンしなくていーから」


長い睫毛に覆われた瞳が、大きく開かれた。両の瞳が開ききったとき、先程の笑顔は消えていた。
瞬きもせず、シンタローを見つめる。口を開きかけたが、言葉は出てこない。
シンタローは、彼女の目の前にどっかりと胡坐をかいた。
「パプワはホラ、あんなだから。お前のそんな顔見たら、気にしちまうだろーしさ。言いづらいってのも判るけど」
は黙ったまま、シンタローの言葉をじっと聞いていた。瞳は揺れていたが、偽りのない視線。今更ながら自分の言葉の気障さ加減に気がついて、シンタローは少し目線を外した。
「だからさ、そのぉ…何かあるんなら、今のうちに言っとくのも手だぜ?」
人を励ますのは初めてだった。
月並みな科白に自分で嫌気が差したが、意外にも少女はこっくりと、小さくではあるが頭を振った。

「──眠れないとね…こうやって、外に出て星を見てたの。そうすると…少しだけ安らぐから」
ぽつり、ぽつりと。言葉を選ぶように、ゆっくりとは話し始めた。
昼間気にしないでいられる事が、夜になると不安に形を変える事。
皆に心配を掛けまいと、いつも一人で処理しようとしていた事。
「お前、いつも夜中に抜け出してたのはソレでかよ」
「知ってたの!?」
思いがけない言葉に、心底驚きの声をあげる
抜け出していた事すら、気付かれていると思っていなかったのだ。
ガンマ団ナンバーワンもナメられたものだ、とシンタローは胸中で苦笑した。
「まぁ…女の子のトイレについてく訳にもいかねーから」
しかしこちらも、偉そうな事を言えた義理ではない。
まさか彼女が毎夜一人で悩んでいるなどとは、思いもしなかったのだから。
今日はたまたま、帰りが遅いので探しにきただけだったのだ。
だが膝を抱えたままの彼女を見て、その判断は正しかったと心から思う。
今夜追いかけていなければ、彼女のこんな表情など見る機会はおろか、想像する事すらなかっただろう。きっと、この先も。

「…焦るのも判るけどさ、ゆっくり思い出せばいいんじゃねーの?」
百回使われたような科白しか出てこないのは、もう諦めた。言いたい事が伝われば、それでいいのだと自分に言い聞かせシンタローは続けた。
「ここってさ…何もねーじゃん。パプワがいて、ナマモノがいて、自然があって…そんだけだろ」
「…うん」
「そこで今、は生きてる。…それで十分だろ。少なくとも、ここにいるうちは」
一端言葉を切って、少女の反応を見る。ふっと、彼女が小さく笑った…ような気がした。
やがて、泣き笑いのような表情のとシンタローの視線がぶつかった。

「シンタローさんは…この島の外から来たんだよね?」
はっきりと彼の口から聞いた事はなかったが、初対面の時、そして普段の言動から、何となく予想はついていたこと。
今までがそれを話題に上げなかったのは、自分には何も話すことがないというコンプレックスからだったのかも知れない。
シンタローは思わずの方を見た。それはからシンタローに向けられた、初めての興味の表れだったのだ。
「ん、ああ…」
「─…どんなところだったの?」
「どんな、って…まぁ、大したトコじゃねーんだけどよ」
(折角興味示してくれてナンだけど、ガンマ団だしなぁ…)
記憶がないのが余計そう見せているのだろうが、シンタローにとっての存在は無垢そのものだった。
その彼女に、泥臭い暗殺集団の話をするのはどうにも気が引けた。
「…俺は、自分からそこを抜け出したんだよな」
の目が、二・三度瞬いた。どうして?とその顔は告げている。シンタローは先を続けた。
「俺には弟がいてさ。その弟の事で、親父とちょっと…まぁ、何だ。色々あって」
はじっと彼を見つめたまま、口を挟まない。
気付くとシンタローは、パプワ島に来た経緯を一通り話していた。聞かれなかったから話さなかっただけではあるが、パプワにすら話した事のなかった事実。

「シンタローさんにとって、弟さんは…とても大切な人なんだね」
話し終えたシンタローにそう言ったの顔は、微笑んでいた。その通りなのだが、そんな風に言われると何やら照れくさい。それを隠すように、シンタローは答えた。
「大切っつーか…アイツは、可哀相なヤツなんだよ。何もわかんねーうちから、実の親父に閉じ込められちまってさ」
だから、助けてやりたいのだ…と。言って、シンタローは目の前の少女にも似たような感情を抱いていた事に気がついた。
勿論、それが全てではない。だが自分の中に一部、確かにその想いは存在していた。
(だから…気になったのか)
弟に対するそれとは違うが、『放っておけない』という感情。
出会って一月ほどにしかならないこの少女に、弟を彷彿とさせるほどの想いを抱いていた事実。
(随分と、お優しくなったモンだ)
嘗ては世界一の暗殺者と恐れられ、半端なモノは近づく事すら赦さなかったこの自分が。シンタローは自嘲気味に唇の端を吊り上げた。

「私ね、本当は…怖いのかも知れない」
の声が、シンタローを回想から引き戻した。
星空を見上げる彼女の苦笑が自嘲のそれであると気付いたのは、今しがたの自分と同じだったからか。
“怖い”と言った彼女の口ぶりは、記憶がない今の状況が、と言うのとは違う気がした。シンタローは首を傾げた。
「パプワくんも、シンタローさんも、島の皆も…皆、何者かも判らない私と仲良くしてくれてる。だから…」
は更に顔を上に向けた。シンタローの位置からは、その表情は見えない。
「…思い出したら、どうなっちゃうんだろうって。本当の私が、この島にとって良くない存在じゃないなんて保証、どこにもないのにって…」
知らず、手は首もとの石を握り締めていた。
心のどこかで、ずっと感じていたこと。島に馴染むほど、大きくなっていく不安。
─自分は、ここにいてはいけないのではないのか─
馬鹿げてると言われるかも知れない。訳の判らない事をと思われるかも知れない。
けれど今日まではずっと、その思いを一人で抱え込んで来ていた。

「─そんなことねーだろ?」
シンタローの言葉に、は顔を上げた。妙にあっさりとしていて、まるで事実を淡々と述べているような響き。
「島の奴らは…パプワも含めて皆、がこーいう奴だから仲良くしてるんだろーし」
「…うん…」
がどんなトコから来て、それまで何をしてたかなんて、奴らにとっちゃ関係ないだろ」
「…そう、かな…」
「この先の記憶が戻って…もしもこの島を出て、それまでの暮らしに戻ったとしても…」
テンポ良く継がれるシンタローの言葉。はじっと彼の言葉に耳を傾けた。
やがて、夕飯のメニューを告げる時のような口調で、シンタローはの悩みに結論を言い渡した。

「─この島で過ごしたの時間が、なくなる訳じゃねーだろ」


月がその位置を変え、彼の貌を徐々に照らしていった。
右から左へ。その表情が顕になったとき、二つの黒い瞳がに真っ直ぐ笑いかけていた。
「………適わないなぁ…シンタローさんには」
「ん?何か言ったか?」
ぽつりと呟いた声は、彼の耳には届かなかったらしい。は立ち上がると、首を傾げたままのシンタローを見下ろした。
「──何でもない!」
何だヨそれ、と。シンタローは苦笑交じりに吐き捨てた。偽りでないの笑顔が、そこに在った。
「帰ろうゼ。風邪ひいちまう」
よっこらせ、と腰を持ち上げシンタローも立ち上がった。軽く片手を挙げると、家に向かって歩を進める。その後ろを、がやや小走りに追いかけた。


「あ、そうだ。お前夜更かししたからって、寝坊すんなよ?」
「一度でいいから、シンタローさんのお味噌汁の匂いで目覚めてみたいなぁー」
「だーめ」
「けちーっ」
─そういや、コイツが冗談言うなんて初めてだな。
強請るに舌を出しながら、シンタローは密かに笑いを噛み殺した。







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