「あいよ、お待ちどう」
「ありがとうございます」
夕暮れの商店街。
湯気を立たせる紙袋を受け取り、は笑顔で頭を下げた。
「熱いうちに食べなよ」
気のいい店主の言葉に、そうします。と笑って答える。
進行方向へ身体を反転させると、ふと、周囲の空気に緊張感を感じた。
普段と変わらぬ喧騒に混じり、僅かに困惑の声が聞こえる。
「───あら」
出元は直ぐに見つかった。
黒いスーツに身を包んだ強面の男が、魚屋の店先で品定めをしている。
痩せ型だが均整の取れた体躯。後方へ撫で付けられた髪と鋭い眼光は、のどかな田舎町の商店街では浮いていた。
「──終わったか?」
の視線に気付いた人物は、魚とにらめっこしていた顔を上げた。
待ち合わせをしていた恋人のごとく自然な動作だった。
「─お待たせしてしまったようで」
「気にするな。急に押しかけたこっちが悪い」
滑らかに侘びを述べると、男はひらひらと左手を振った。
ちゃんのお連れさんかい?」
魚屋の店主の問いに、はにっこりと微笑んだ。
「以前、お世話になった方なんです」





風がそよぐ場所





「相変わらずなんですね」
土手を並んで歩きながら、は言った。
「何がだ」
「その格好で商店街にいらっしゃるなんて、流石度胸の桁が違いますよね」
男は、自分の格好をしげしげと見下ろした。
「何の変哲も無いスーツじゃねえか。どっからどう見ても、仕事帰りのサラリーマンだろ」
「サラリーマンは仕事帰りに生魚なんて買いませんし、黒ネクタイも冠婚葬祭のときくらいです」
あと、とは男の胸元を指差した。
「そんないかにも、なサングラスも、普通は持ってませんしね」
男の眉が寄る。同時に、口元が微かに吊り上がった。
「衰えてはいねえみたいだな」
スーツの“裏側”のポケットから、黒縁のサングラスを取り出す。
まあ。と、は空を仰いだ。
「散々、叩き込まれましたからねえ。忘れようにも、中々」

男の目が、確かめるように細まった。
…」
「大判焼き」
「あ?」
ずい、と目の前に差し出されたのは、まだ湯気を出す紙袋。
「ホントは持って帰ろうと思ったんですけど、冷めちゃいますから。こんなものですけど、ご馳走しますよ」
「─いや、俺は甘いものは…」
「あんこ以外のもありますから、大丈夫です」
「そうなのか?」
ええ、と言って差し出された一つの大判焼き。
自分の分も取り出したが、川べりへと歩いて行く。仕方なく、男は後に続いた。
草の上に、並んで腰を落とす。
川面は、夕焼けの色を映していた。
「───何だこりゃ」
一口齧ったところで、男がうんざりとした声を上げた。
「抹茶クリーム」
じとり、と男は彼女を睨んだ。
「あんこ以外って、お前なぁ…」
「でも、甘さは控えめな方なんですよ?」
これでか!?と男は齧りかけの大判焼きを見やった。
こくり、とが頷く。
「──で、お前のは」
「カスタード」
「───」
川のせせらぎが、沈黙を攫って行った。

「──大判焼きつったら、日本の伝統菓子だろ」
やがて、男は大きな溜息を吐いた。
「はい。冬の風物詩です」
カスタード焼きを頬張りながら、が答える。男の顔が、嫌悪に歪んだ。
「それが何だって、西洋かぶれの具なんざ詰めてやがるんだ」
「和洋折衷って言うじゃないですか」
「違う。絶対違う。ていうか認めん」
簡潔なの答えに、男は最大限に眉根を寄せて否定を返した。
「常に頭を柔らかくしとけって、ご自分で散々言われてたじゃないですか」
「機密任務と大判焼きを一緒にするな」
「移ろい行くものを受け入れる事も、必要だと思うんですけどねえ」
ぼんやりと、吐き出された言葉。
男の声が途切れた。
やがて、幾分固い声音が、その口から漏れた。

「─お前の訳の解らん心変わりも、黙って見送れっつー事か?」

彼女は、答えなかった。
手元のカスタード焼きだけが、音も無くその形を無くして行く。
男は、頭を掻いた。溜息が漏れる。
「─大体、楽隠居って歳でもねえだろう」
「あら。こう見えてちゃんと働いてるんですよ?」
淀みなく発せられた反論。男は、の方を向いた。
「スーパーのレジ打ちが、か?」
「れっきとしたお仕事ですよ」
本気か冗談かつかない声で、が答える。構わず、男は続けた。
「その前は本屋の売り子。不定期で試食販売のデモンストレーションか」
「よくお調べですね」
「こんなもの、調べるうちに入らん。第一、本人に確かめた訳じゃない。正確性もどうだか」
よく言う、とは内心で舌を巻いた。
追われる可能性を、捨てた訳ではなかった。
それがゆえ、厳重とは言えないが、彼女に出来うる範囲で予防線は張ってあった。“その気になって”調べでもしない限り、の素性が真に割れる事はない。
もっとも、とは息を吐いた。

「まあ、こちらも、本気でかくれんぼするつもりがあった訳じゃないですし」
「そうかい」
「そちらが本気になったら、敵う道理がありませんから。一尉殿」
一尉、と呼ばれた男は、煙草を取り出して火を点けた。
細く長く煙が吐き出され、風に流されて行く。
「─いい加減、戻れ。誤魔化すのにも限度があるんだ」
「…辞意はお伝えした筈ですけど」
「承諾した覚えはねえな」
「手続きもきっちり済ませましたよ」
「バカヤロウ、順序が逆だ。承諾してもねえモノが通るか。中学からやり直して来い」
「でも、本部通達でちゃんと」
「─お前の上官は、俺だ」
思わず、は言葉を失った。
川面に向けられたままのその声は、断固とした響きだった。

「─お仕事、お忙しいんじゃありませんか?」
ぽつり、とが問い掛ける。
長い溜息が、男の口から零れた。
「そうか。お前さんがサボり入れ始めた後だったか」
「人聞きの悪い…」
男が、煙草を咥えた顔をの方へ向けた。少し疲れた眼差しだった。
「竹村ごと別室に異動した。暇かと言われりゃそうでもないが、お前の言ってる忙しいとは多分、ほど遠いだろうな」
「─え、何で、だって……─まさか」
「理由は解らん。上からの命令だ。ただ、恐らくお前とは無関係だ。馬鹿な想像は止せ」
男の言葉に、は頭を冷やした。確かに、自分には誰かの立場を動かすほどの存在価値はない。
ただ、とは男の横顔を見た。
前線で酷使するならまだしも、この男は閑職で燻らせていいような能力の持ち主ではない。それは上層部が一番よく解っている筈で、だからこそが知る限りでもあれだけの働きがあった。
理由が解らない、と彼は言った。つまり、何かの責任を取らせる名目ですらない。

「─竹村先輩は、お元気ですか?」
意識的に思考を剥がした。もう、無関係なのだからと。
「あいつは…相変わらず、呑気なもんだ」
くすり、とは笑みを零した。
得意分野も、思考法も、趣味嗜好も、ほぼ間逆の上官と部下だった。
そんな彼等を見ているのが─好きだった。

「─あのですね」
「何だ」
男は、の方を向いた。
夕陽を背負ったその笑顔を、彼は──綺麗だと、思った。
「私、嫌いじゃなかったです。長沼さん達と一緒にお仕事するの」
「そうかい」
そいつはどうも、と煙草を含む。
「──でも」
彼女の口から繋げられた、否定の文節。
長沼は、逸らしかけた顔を上げた。
は、じっと彼を見て…やがて、照れ臭そうに、苦笑した。
「もっと、好きなものが出来ちゃったんです」
─ああ。
長沼は思った。
憑き物が落ちた、とは、こういう顔の事を言うのだろう。
「─それが、今のお前さんの居場所って訳かい」
紫煙を吐き出す。
は、きょとんと瞬きをし、そして─声を上げて、笑った。
「あはは。居場所って言うなら、あそこの方がよっぽど、色々保障されてましたよ」
長沼は眉を寄せた。
つまり何だ、この娘は。
「居場所も用意されてねえところに、手前から首突っ込んでるってのか」
は、軽く首を傾げ…頬に指をついた。
考え事をするときの、彼女の癖だった。
「そうですねえ…」
やがて、にぱりと。
長沼評するところのあの『能天気』な表情で、彼女は笑った。
「好きな事をしてるんですから、権利を主張するのはお門違いでしょう?」

─やりたい事をして金まで貰おうなんざ、図々しいにも程があるさ。

それは、仕事に愚痴を零す部下に、彼が口癖のように言った言葉だった。

長沼は長い溜息を吐いた。
彼女の言葉こそが全てを語っている。
今の彼女は、あの彷徨える羊のような目をした娘とは違う。
覚悟なら、とうに出来ているのだ。
ならば。
「─俺から言う事は、何もねえ。か」
よっこいせ、と掛け声を掛ける。
「オヤジくさいですよ、ソレ」
「現にオヤジなんだ。問題ねえだろう」
立ち上がり、砂を払う。
追うように、も立ち上がった。
「そろそろ行かんと、帰りの便に間に合わん」
「折角なんですから、のんびりしてらしたら宜しいのに」
長沼は、憮然とした顔を向けた。
─もっとも。は思った。
彼はいつもこんな表情なのであって、特別機嫌が悪い訳ではない…多分。
「そうもいかん。幾ら何でも、国民の血税を温泉に使う訳にもな」
「あ、これ経費なんですか?」
「理由なんざ、後でどうとでもなる」
俺等の仕事を何だと思ってるんだ?長沼が不敵に笑う。
だからと言って、上官まで手玉に取るか。
は思ったが、この男ならばやりかねない。それだけの機転を備えた男だ。
少し呆れたような苦笑を返すと、長沼はふっと息を吐き出した。
そして、くるり、と背を向けた。
「──…」
声を掛けまいか。一瞬、逡巡したが、やがて長沼が、軽くその右手を上げた。
そのまま、気だるげに足を踏み出す。
別れの言葉もなく。
長沼は、土手沿いを、元来た道へと戻って行った。
は、右手を上げかけて、下ろした。

も無言で、元上官の姿を見送った。


ちゃんじゃねえか」
聞き慣れた声に振り返ると、六文の父─今や猫の姿となった鈴木三文が、足元で小さく喉を鳴らした。
「こんにちは、おじさま」
「オウ。─今の男」
声の届かぬ距離にまで離れた長沼を見やって、三文が問う。
「─お世話になった方で」
は、苦笑で返した。
「─良かったのかい?」
軽く眼を細め、三文が問うと。
「──はい。大丈夫、ですよ」
柔らかく、は微笑んだ。
しかし三文の目には、悪戯を見つかった子供のような表情に見えた。
三文は、小さく息を吐いた。
「久しぶりに、夕飯でも一緒にどうだ?るくちゃん等とも仲良かっただろ」
その誘いには、柔らかい微笑みを浮かべ頷いた。

「─では、ありがたく」
「オウ、遠慮すんなって」
「お土産は何にしますかね」
「そうさねぇ…」
土手を並んで鈴木家への道を辿りながらの問いに、三文は暫し喉を鳴らし、やがて、何だっていいさ。と一言返した。

─お前さんが居るってだけで十分だって思ってる連中が、ここにはわんさといるんだからさ。

心の中で呟いて、しかしこの娘がそれを解るのはもう少し先なんだろうと三文は苦笑した。







+++
やってしまいましたのクロスオーバーもの。
ヒロインの素性についてはご想像にお任せしますスタンスなんですが、
筆者としてはこういうのを想像しながら書いてますよ、というお話です。
あまりこの話に縛られず、一つの可能性と思って頂ければ。
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