それは、いつものように学校から帰る道すがら。
常ならば目にも留めない川べりの景色に気付いたのは、偶然だった。
いや…或いは、私が神の使いで在るが故の必然であったのか。





賭けをしましょう




「じゃあ、賭けでもしてみましょうか?」
怪しげな響きを含んだ声。
背筋に震えが走り、思わず私は足を止めた。
声の方向に視線を送る。
いつもの土手。そこに、いつもは見ない顔が二つ。

「賭け?」
首を傾げたのは、何度諌めようが懲りずに寺にやってくる、あの女。
その正面に在る、先程の声の持ち主は…
「そっちが勝ったら願い事一つ、タダで聞いてあげよう」
笑いながら答えたのは、案山子。
(………!)
目を疑った。
あれは確かに、あの悪魔。
しかも、これは。
これは…紛れもなく、契約の現場!?

「それはまた…随分と、太っ腹なことで」
「いやいや、最近日々のスパイスが不足気味でして」
発したの声は、しかし疑念を含んではいない。
案山子は、ただ虚ろに笑うだけ。

虚ろな眼に、“あの時”の恐怖が蘇る。
私に向けられている訳ではないのに…目にしただけで、この圧力。
奥歯を噛み締め、目の前の光景を今一度恰目する。
二人は動かない。

何時の間にか、握り締めた拳が汗ばんでいた。
足が竦んで、動かない。
目の前で、悪魔の契約が成されようとしているのに…


「で…どうする?」
悪魔が囁いた。
私の足は…未だ動かない。
(………ッ)
情けなさに、一瞬目を閉じる。
瞼の裏に浮かんだのは…



──ルーくん。



大天使でも悪魔でもなく、あの能天気な人間の女の顔だった。


「……そうね」
澄んだ声に引き戻され、目を開けた。
今しがた視たのと同じ顔が、案山子に何かを言おうとしている。


「─…ッうわぁあああぁあああっ!」

何かを、考える間も無く。
鉛の様に重たかった両足は、地を蹴って跳んでいた。
反動で舞った羽が、視界を横切った。
目を丸くしたの顔が、加速度的に近くなる。


「待て、悪魔め!!」
ずしゃり、と云う音とともに、案山子に剣の切っ先を向ける。
目が合った。
治まっていた震えが、再び襲う。
「……ッ、魔の契約を、神の使徒が…みすみす見逃すと思ったか!」
負ける訳にはいかない。
神から遣わされた身として、悪魔などに…!
震える剣先を突きつけ、足を踏ん張る。
案山子は…動かない。
「噂をすれば何とやら…さん、早速チャンス到来かもよ?」
「…何?」
ちらり、と私の背後を見遣る案山子。
振り返ると、こちらを見下ろすと目が合った。

「…ルーくん、ちょっとごめんね?」
「は…」

何、と問う間が与えられた試しなど。
コイツのこの台詞の後に、嘗て存在した事が、一度でもあっただろうか。
私は、もう何度目だったか数えるのも馬鹿らしいほどに、毎度『二度と踏むまい』と心に決めた筈の轍を…今一度自分の足で、踏んだ。


「な…まッ、ちょ、はな、離せって!!」
「ん、すーぐ済むから、ちょっとだけじっとしてて?」
「出来るか!貴様、少しは現状を見て物を言え!」

突如全身を覆った温もりから、逃れようと必死にもがく。
涼やかに答えた奴は、私を捕らえる腕を緩めようとはしない。
「…くッ、離せ!悪魔に肩入れするなど、貴様正気か!?」
「うーん…」
「悩むところか!そもそもお前…─って………何をしている?」
奴の腕の動きに違和感を感じ、思わず見上げる。
珍しく合わなかった視線の先を辿れば、案山子とぶつかった。
「どうよ?」
「んー…、この辺の筋肉の付き方とか、やっぱり男の子っぽいと思うんですよねぇ」
「ふむ、成る程ね」
私の腕や背中に触れながら、淡々と報告する
そして、一々それらに相槌を打つ案山子。
「…ちょっと待て」
これは一体…
「………何の話だ」








「人をおちょくるのも大概にしろ!!」
数分後。
事の顛末を訊いた私は、思わず怒鳴った。
「ごめんね、ルーくん…そんなに怒らないで?第一、別におちょくった訳じゃ」
「黙れ!下らん事に時間と力を割いた、こっちの身にもなってみろ!!」
怒髪天を突かれた私の、一歩後を付いてくる
言葉こそ謝罪のそれだが、声色にも顔色にも悪びれる素振りが無いのはいつもの事だ。
……事だが。
「ルーくんも、何もブブさんと話してたくらいであんなに慌てなくたって…」
「相手は悪魔だぞ!?落ち着いていられるか!」
「でも、ようやく安心してくれたでしょ?」
そう言うとは、小走りに私を追い越して、正面から顔を覗き込んだ。
「危険な事なんて、何一つ話しちゃいなかったんだから」
ね?と微笑む
拳がわなわなと震えるのが、自分でも解った。
「…だからって、人を…よりにもよって、神の使徒を賭けのネタにする奴があるか!!」
目の前の阿呆面に、特大の怒声で怒鳴りつける。
そう。
この阿呆と、あの案山子が雁首揃えて何を相談していたかと言えば…
「だって、私も気にならないと言えば嘘になるし…ルーくん、聞いても教えてくれないでしょ?」
「必要もないから、だ!大体、そのような瑣末な区別に囚われる事自体、人間の………いや、もういい…」
コイツには言っても無駄だと思い出し、言いかけた言葉を丸呑みした。

この人間の女が、上級悪魔に持ちかけられた賭けの内容。それは…
私が男性格か女性格か、と言う、実に下らないものだった。

つまり私は、自分をネタに低俗な行為を行おうとしていた者どもを、決死の覚悟で止めようとしていた訳で…


─…客観的に判断すると、それは間抜けにも程がある光景なのでは…?


とりあえず騒動が収まった所為もあってか、本日最大の溜め息が、私の口から漏れた。
「それに、ブブさんも六文君も、皆気になるって言うし…」
横を歩くが、独り言のように何やら呟いている。

──そういえば、コイツは…

ふと、頭をもたげた疑問。
もののついでだからと、頭一つ分上の目線を見上げた。
「ところで、お前」
「ん?」
呼び掛ければ即座に返って来る、明るい声。
──これも、コイツの自分勝手な予測に拠るものだとしたら。
それは…私が常から、どこかで抱いていた疑問でもあった。
「もし私が女性だったら、どうするつもりなんだ」

ぱちくりと、瞼が閉じられて開く音が、聞こえた気がした。
は、質問の意味を探るように、暫し私を見つめ、やがて…


「ルーくんがルーくんなんだったら、何も変わらないよ」

何の迷いもない目で声で、そう言って微笑った。

「?どういう…ぅおわッ」
「ルーくんだったら、どんなでも大好きって意味」
「抱きつくな!第一、同性愛は神への冒涜…」
「もぅルーくん本ッ当可愛いなぁ!心配しなくても大丈夫だから」
「誰が!?…ッいいから離 れ ろ!!」


神よ。
この阿呆の馬鹿さ加減は、私の手には少々余る代物です。
ですがルミエルは…決して諦めたりはしません!
必ずや、この人間を改心させ…


「…そういえばお前、どちらに賭けたんだ?」
「ん?─…ナイショ」
「神の使徒の前で隠し事など………!?!?」
「ルーくんは解りやすいねぇ。耳まで真っ赤」
「きッ…貴様今何をしたーーーー!!?」


…改心させて見せる心算…です、が…
─…現状では、困難である事は否めません……。








+++
結局のところルミエルはどっちなんだろう、という素朴な疑問から発生したネタ。
最後にルーが何をされたのかは、ご想像にお任せします。
050929