「天国って─…どのくらい遠くにあるんですか?」
彼女は、空を見上げてぽつりと訊いた。





遠く





それは、唐突な質問だった。
何の脈絡も無い、独立した問い掛け。
そして、それ故それは純粋な言葉だった。

ヨフィエルは、横に座る娘を見た。
一拍置いて、が上を向いていた首を其方へ向けた。
返答を待つように、じっとヨフィエルの目を見つめる。

「──距離や時間等という概念で計ろうとする事自体、無意味極まりない」
諦めたように、ヨフィエルは口を開いた。
の目は、揺らがない。
「──…どちらにせよ」
返事が無いのを確認して、ヨフィエルは続けた。
「─お前たち今“生きて”居る者にとっては、“遠い”事に変わりはあるまい」


この人間の娘にかけて遣る言葉が有るとするなら、真理を簡潔に述べる以外に必要なものなど無いのだろう。
深い付き合いでは決して無いが、それは彼女を見ていれば嫌でも解る事だった。
感傷的な要素など、自分とこの娘との間には存在し得る筈も無い。
にも関わらず、彼の言葉は、真実を容赦無く突きつけるものではなかった。

ヨフィエルはもう一度、の表情を確かめた。
彼をじっと見つめていた双の眼はやがて、少し視線を下げ仄かに笑った。
それは、自嘲に似た笑みだった。


(─…私も、まだ甘いか…)
知識を司る存在である彼にとって、人一人の心理を知る事など造作も無い。
─それが例え、巧妙に隠されたものであったとしても。
と言う人間の思考は、傍から見えるほど単純でも平和でもない。
ただ、その事を知る者は今のところ、彼くらいであろうと思われた。
適度に濁す返答しかしなかったのはだからという訳では無かったが、残酷であると解っていたが故に口にしなかったのは、ヨフィエルにとっては極めて稀有な例だった。


「──ヨフィエルさん」
ふいに、また空を見上げていたが口を開いた。
「なんだ」
「私の罪は─…私だけのものですよね」
遠くを見つめる瞳は、矢張り揺らがない。

「ああ」
言葉の意味を悟り、ヨフィエルは彼女から視線を外した。
正視を憚られた訳ではない。
だが、この娘は恐らく、返答を聞いた際の表情を見られたいとは願っていない筈だった。
「何人も、代わりに償う事など出来はしない。罪とは…そう謂うものだ」
ふ、と云う、苦笑にも安堵にも似た声が聞こえた。









「わぁッ…──ってて…何だ?」
学校帰りのルミエルが其れに気付いたのは、躓いて体勢を崩しかけた為だった。
「──…またコイツか…」
庭の大樹の木陰、いつもの『定位置』で寝息を立てるその人を見て、溜め息を一つ。
沈みかけた夕陽に照らされ、夕方の涼しい風に吹かれ。
蹴られた筈の彼女は、心地良さそうに眼を開こうとはしない。

「ルミエル。帰ったか」
「ヨフィエル様」
声に気付いてやって来た上級天使に、慌てて居住いを正す。
足元で僅かに身動ぎが聞こえた。
呆れたように、ルミエルはもう一つ溜め息を零した。
「─叩き起こして、追い返しましょうか?」
伺いを立てんと見上げ、いつもとは違うヨフィエルの雰囲気に気付き首を傾げる。
「…ヨフィエル様?どうか…」
「─…良い。寝かせておけ」
訊ねようとした言葉を遮るや、上級天使はくるりと背を向けた。
「──でも」
「気になるなら、お前が其処で様子を見ていろ。ルミエル」
それだけ云うと、今度こそヨフィエルは本堂へ踵を返した。


「……いま暫くは、現状維持…か」
庭の方へ目を向けながら、ヨフィエルはぽつりと呟いた。
大樹の根元に、とルミエルが並んで腰を下ろしている。
片方は未だその瞼を開ける気配なく、もう片方は半ば呆れたようにそちらを見つめている。
あの様子では、ルミエルは相変わらず気付いてはいないのだろう。
「──或いは」
或いは彼もまた、無意識のうちに目を背けているだけかも知れないが。
それでも良いのだろう…今は、まだ。
が何ごとか呟いた。ルミエルの顔が仄かに染まる。
唇の動きから察するに、寝言で彼の名でも呼んだのだろう。
「夢の逢瀬ならば、存分に味わうが良かろう…」
他にかけるべき言葉など、有る筈も無く。
一つ息を吐くと、ヨフィエルは今度こそ彼らに背を向けた。








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051001