胸に渦巻くものの名を、
神は与えては下さらなかった。





あなたがはじめて





という人間は、変わっている。
私の『人間』というものに対する理解の不足分を差し引いても、これは恐らく妥当な評価だろう。


「ルーくん。考え事?」
例えばこうやって、何の前触れも無く正面から覗き込む仕草。
「─…っそう思うのなら、何故わざわざ邪魔するんだと、いつもいつも…!」
そうして私が、いくら諌めようと。
「だってルーくん、後ろから抱きついたら怒るから」
「問題外だ!!」
まるで堪えてないかの如く、けろりと返される。
多分。
何で私が怒っているのか、なんて、こいつは少しも解っていないのだろう。

「大体だな…──………」
説教をしかけ、思わず言葉に詰まる。
さっき覗き込んだ時のまま、真っ直ぐ私を見つめている視線とぶつかったから…。
「…?“大体”、何?」
首を傾げる
目は、未だ私の瞳を正面から見ている。
「………何でもないッ」
視線を逸らす。
案の定、また視線を合わせる
「なにー?ルーくん」
「何でもないと言っているだろう!」
幾ら逸らしても、こいつはしつこく付いてくる。
いつもそう。先に逸らすのは私。
にらめっこならば、私の『負け』だ。
(…私は神の使徒だぞ。たかが人間の眼力ごときに屈するなど…!)
そんな事、ある筈が無い。
あってはならない。
けどこいつの、この目だけは……


「何でも“ある”でしょ?」
「!なっ…」
何をする、と言おうとしたけど、言葉にならなかった。
逸らした筈のアイツの瞳が、目の前にある。
両頬に触れる、細い指の感触。
「─……ッ…」
そっと支える程度の力でしか、触れられていなかった筈だ。
逃れようと思えば、逃れられる程の束縛。
でも、何故か、動けなかった。

「──ルーくん」

奴の唇が、私の名の形に動いた。
長い睫毛に覆われた瞳が、一つだけ瞬きをした。
何故か目が、離せなくて。
その動作の一部始終を、私は瞬きもせずに見ていた。
再び開いた、二つの黒い瞳の中に…私がいる。

「─………あ……」
それは、ただ漏れ出ただけの音ではなく。
目を合わせたままで呼ばれた、私の名に呼応した『言葉』。
恐らく、私は、この時。
徐々に大きくなる、黒い珠に映った自分の姿を見ながら。
初めて…その『名』を、口にしようとしていた。


惹き付けられるように口にした、『言葉』の続き。
二文字目から先の『音』は、届く前に飲み込まれた。

唇が開かない、と認識したのと同時。
いつも呑気に昼寝をしているのと同じ顔が、目の前に在った。



「──………な…」
『声』が、開放されるまでの間。
ほんの数秒にも満たない筈のその時間は、私には途方の無い永遠にも等しく感じられた。
「…おま、今、何……」
やっとの事で搾り出したのは、意味の繋がらない文字の羅列。
わなわなと震える手で指差した先で、私の『音』を塞いで飲み込んだ張本人が微笑した。
「──何の……つもりだ貴様ーーー!!」











「─…怒ってる?」
膝を抱えて座り込んだ私を、下から覗き込むと目が合った。
相変わらず正面から覗き込む癖はそのままだが、声は少しだけ遠慮がちのようだった。
「………た」
「え?」
「─…何故、あんな事をした」
怒っていない、と言えば嘘になる。
けれど、頭に来ているのとは、少し違う気がしていた。
怒っているとすればそれは、その行為に対して、ではなく…
「………!!」
思わず、膝の間に顔を埋めた。
考えのその先を、まるで本能が拒絶しているかのよう。
「──ああする事で…ね」
熱くなった耳にの声が響いて、じんと痛みにも似た感覚が襲う。
「…解る事って、あると思うんだ」
普段は理解し難い事だらけの、奴の言葉。
その時だけは、何故かすうっと、頭の中に入ってきた。
そうしたら、少し耳の火照りも収まって。
顔を上げたら、先刻みたいに微笑むがこちらを見ていた。
「──たとえ、言葉に出来ない想いが、あったとしても。」
そう括ると、奴は、ね?と首を傾げて笑った。
どこかで、奴のその言葉に納得していた。
けれど私は…いや、或いは『だからこそ』。
それには答えず、少しだけ視線を外した。

「…私は神の使徒だ」
「知ってる」
「神罰が下るぞ」
「………知ってる」

は、と顔を上げた。
奴は笑ったままだったけれど、その笑顔が少しだけ歪んでいたのを、確かに見た。
それは一瞬だけで、直ぐに元の能天気な笑顔に戻ってしまったけれど。

「だからね、人間にとって触れ合いってすごーく大切なんだよ」
「私は天使だ!」
「うん、でも、私はルーくんが好きだから。」
「そんな事は訊いてない!いいから離…」

いつものように抱きつかれ、腕を振り上げたところでふと止まる。
「……『はな』…?」
首を傾げる
目が合った。
ただ、それだけで。

「…ルーくん?」
ただそれだけで、いつもは言える一言が、言えなくなった。
「─お前みたいな人間ははじめてだ」
目を逸らしたまま、代わりの答えを呟く。
視界の隅で、の目が細まった。
「…何笑ってんだ」
だって、と奴が少し紅くなった目元をこちらに向けた。
「私、ルーくんの『はじめて』なんだ、って思ったら」
「妙な言い方をするな!私はただ…」
「───嬉しくて。」

何が、とか。
何処が、とか。
そもそも私の言った意味解ってるのか、とか。

いつもだったら、あれこれ言い返してたところだ。
けど、あいつの、あの顔を見たら。
「……罰当たりが…」
何故か何も、言えなくなってしまった。
私の呟きを聞いて、がまた微笑んだ。

「ルーくんと触れ合えるんだったら、罰当たってもいいや」

あっさりと吐かれた台詞。
ふざけた言動はいつもの事なのに、まるで締め付けられるような胸の痛みは何だろう。

「………良い訳があるか」
「え、何?ルーくん」
知らず呟いた言葉は、奴の耳には届かなかったらしい。
私はその場で立ち上がった。
追うように、座ったままのの目が上を向く。
「私は神の使徒だ。罪人を見過ごす事など出来はしない」
見下ろして言うと、が少し首を傾げた。
救いを示すべき存在に対しての物言いにしては奇妙だと、自分でも思いながら私は続けた。
「私が傍にいる限り、貴様に罪など犯させはしない。覚悟しておけ」
いいな!と指差すと、は一瞬きょとんとし…
「──ルーくん…それって、プロポーズ?」
私の宣告に対し、よりにもよって最大級のボケを発揮した。


「おっま…本気で阿呆か!何考えてんだ」
「何って、私はいつでもルーくん一筋よ?」
「沸いてんな!……あーもう、私が馬鹿だった!」

高鳴る鼓動、疼く胸。
上昇する体温、鈍い痛み。
神よ、あなたはこの無形のものの名を、私に与えては下さらなかった。
これも試練ですか、神よ。
だとしたら、私は。

「ルーくん、大好き」
「抱きつくな!!」


今はただ、その御心に従います──神よ。








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051018