「くッ来るなッ!!」
首筋に、ひやりとした感触が当てられた。
こっちに来るな
俺─鈴木六文の喉元には今、きらりと光る剣先が突きつけられている。
誰にか、は言わずもがな。
いつもの天使が、背後から俺の動きを封じ…つまりは、所謂『羽交い絞め』という目に合っているわけだ。
そして、その俺の前方1メートル付近、一人の女性が不安げな目で佇んでいる。
「──ルーくん」
「寄るなッ!この人間がどうなってもいいのか!」
踏み出した彼女の一歩を、天使の叫びが押し留める。
「─神の使いの言葉じゃないんじゃ…」
思わず呟き、ちらりと背後を覗う。天使の耳には届かなかったらしい。
じっと彼女と目線を合わせたまま、額に脂汗すら掻いている。
(何だってこんなことに…)
溜め息を衝くと、俺はここに至る経緯を反芻した。
『貴様、悪魔の企みを知らんのか!?』
『あーもう、俺忙しいんだって』
『待て!神の御使いを無視するとは…』
学校帰りに、待ち伏せしていた天使にいちゃもんをつけられた。
ここまでは、いつも通り。
適当に受け流す俺。食い下がる天使。これも、いつも通り。
『─ルーくん?六文くんも』
そこに、彼女─さんが通りがかった。
一声掛けられた。
たったそれだけのこと。
けど次の瞬間、正に神業の如く、天使に背後を取られた俺がいた。
(彼女………か?原因は)
現実に戻り、俺は改めてさんを見た。
「ねェ、今から六文くん家で鍋するの。だからルーくんも…」
具材の入っていると思われる買い物袋を掲げて、歩み寄る彼女。
目の前で知り合いがこんな目に合っているのにも関わらずの態度は、当の俺がさして慌てていないことを解っているからだろう。
彼女は、そういった“目”が利く人だ。
最近、何年ぶりに再会したけど、それは昔から変わらない。
楽観主義者的振る舞いも、見た目ほど何も考えていない訳ではないところも、─いまいち、何を考えているのか読めないところも。
ただ一つだけ、違ったことと言えば…
「くっ…来るなと言うのが聞こえんのか、貴様は!第一、人間の施しなど…」
彼女が歩み寄るのに合わせて一歩ずつ後退する(当然俺も同時に引きずられる羽目に合う)、少年の姿をした天使。
という女性は、この天使に惚れている。
と、自ら公言している。
──本気か冗談かは、俺には解らない。
だからかどうかは知らないが、天使の方は彼女を苦手にしているらしい。
まあ、無理もない。
(─…けど、なぁ…)
先程から感じている、この違和感。
(─なんだ、コレ?)
違和感の正体を紐解こうとした矢先、視界の隅に何かがはためいた。
(───…あ。)
上擦った声。
耳の先まで上気した肌。
背後で揺れる、セーラー服の裾。
(──なるほどね)
ようやく合点がいった。
俺はもう一度小さく溜め息を衝き、さんに呼びかけた。
「あのささん」
「…六文くん」
彼女が、天使に向けていた眼差しを俺に向けた。
「悪いけど先に行って、るくの事手伝ってやってくんないかな」
白葱の頭が覗く白い袋を指差す。
「俺なら大丈夫だから、さ」
苦笑してみせると。
「──…うん。そっか、オトコノコだもんね」
数拍の思案の後、さんはいつものあっけらかんとした笑顔で頷いた。
「──さて」
器用に後ろ向きで手を振りながら、去って行く彼女の姿がようやく角に消えた。
「いい加減、離してくんない?」
ジト目で振り向くと、彼女の去った方向を見つめていた天使が、はっとこちらに意識を戻した。
「今回は少なくとも、俺に非はないよな?」
そもそもこちらに非があったためしなど記憶にないのだが、話を解りやすくするためとりあえずそう言っておく。
一瞬の逡巡の後、白い腕が渋々と解かれた。
何分ぶりかの開放感に、背骨と腕を伸ばす。振り返ると、バツが悪そうに目を背けている天使。
日頃の恨み晴らさで、という考えが一瞬過ぎったが、直ぐにそれじゃ悪魔だと思い直した。
「別に、避けることないんじゃない?」
天使の肩が、びくりと揺れる。
「何のは…」
「スカート穿いてるからって、からかうような人じゃないぜ」
勿論、それだけが理由ではないだろう。(見た目は)似たような年頃の男として、複雑な心境は痛いほど理解できる。
ただ、少しだけ…もどかしく感じたのだ。
「神の御使いである私が、そのような事を気に掛けるとでも…」
「じゃあ、さん呼んでこようか?お前の名前出したら、2秒で飛んでく…」
天使の手が、俺の口を塞いだ。
「貴様ッ!敵に回るなら容赦せんぞ!」
既に台詞が、半ば支離滅裂だ。
面白がる自分を抑えつつ、ホレ見ろ。という目を向けてやる。
ぐ。と、天使が言葉に詰まる音が聞こえた。
自分を棚に上げている事くらいは、承知しているつもりだ。
俺がコイツの立場だったら、物騒な手段は取らないにしても、やっぱり似たような態度を取ってしまうだろう。
まあ、しかし。
“だからこそ”言えることも、矢張りあるのだ。
「…貴様は、アイツの古馴染みだそうだな」
ぽつりと、天使が問いかけた。シンプルに頷く。
「何を…考えているんだ、アイツは?何のためにこんな…」
強がりではない。照れ隠しでもない。
コイツは、戸惑っているんだ。
「あの人の考えてることは、俺にもよく解らない。それなりに長い付き合いでは、あるけどね。ただ」
努めて簡潔に、言葉を繋ぐ。黙って俺に耳を傾ける天使を見たのは、初めてだ。
「─これだけは確かだ。さんは、他人をいい加減に扱う人じゃ、絶対ない」
天使が、少しだけ目を伏せた。
「…まぁ、本人自身はいい加減に見える時もあるけどね」
彼女の耳に入ったら、と思うと、少々恐ろしくなるような言葉で締め括る。
もっとも、仮に本当にそうなったら、あの人は笑って肯定するだろうけど。
天使は、沈黙している。
伏せた表情は見えないけれど、少しだけ、辛そうにも見えた。
そう思ったところで、思わず苦笑した。
親父の仇に共感してるなんて、俺って底抜けのお人好しかも。
「─…まぁつまり、何が言いたいかって言うとさ」
硬くなった空気をほぐしたくて、声を1トーン明るくした。
天使が、ちらりと顔を上げた。
「──本気のさんには抵抗するだけ無駄だから、こっちも本気以上で対抗してようやくトントン」
俺、最近親父やブブの影響受けてるのかも…?自分の口調に不吉な予想をしてしまい、慌てて振り払う。
天使を見れば、ぽかんと口を開けて俺を見ている。
言葉も出てこない、って顔だ。
──気の毒に。
心の中で、出鱈目な経を唱えておいた。
「ば…馬鹿を言うな!」
数秒後、ようやく復活したらしい天使が、いつもの調子で怒鳴った。
「神の御使いである私が、人間に負けるだと!?そんなこと、有り得るものか!」
「現に勝ててないだろ」
さらりとツッコミを入れると、またもや言葉に詰まる天使。
─何か、方向が逸れてきたなぁ。
自分の蒔いた種の収穫法をぼんやりと思案していると、突如目の前に指を差された。
「いいかッあの女に伝えておけ!私は神の御使いだ、お前如きに負けはしないと!!」
言うが早いがスカートを靡かせ、さんと逆方向に、天使は走り去った。
「…明らかに逆効果だと思うんだけど……伝えていいのかな」
厄介事が増えるのは御免だが、あの二人に関しては俺を巻き込まない位置でやり合っていてくれるから、とりあえずは心配ない。
「まぁ、他人ごとで楽しめるチャンスなんて、昨今そうそうなかったしなぁ」
天使の“伝言”を伝えた瞬間の、彼女の輝く顔がありありと目に浮かんだ。
─そうだな、折角だし…偶には傍観者を決め込んでみるか。
晩飯の水炊きに腹を鳴らしながら、俺は足取り軽く踏み出した。
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ウチのルーは今のところ、男性格寄りですね。
無性(両性?)な存在って、相手次第でどちらにも合わせられるんじゃないのかな、という解釈。
060809