甘い誘惑にあっさりと陥落するような、
素直な赤ずきんばかりとは限りませんよ?──狼さん。








『仮面・3/立ち話』








その日は珍しく、昼の街を歩いていました。
─夜の住人にも、お散歩をしたい気分の時はあるのです。
もっとも、正確には散歩ではなく、お遣いの帰り道だったのですが。


「あぁ、今日もいい天気ですね」
「まるで、この時間に外に居るのは珍しくもないような口ぶりだな」
空を仰いで呟いた言葉に被せられた声。


「あら、こう見えて私は早起きさんですよ?」
言って、声の主を振り返る。


「──そいつは失礼した。明るいところで見るのは初めてだからな」
悪びれる風でもなく、口元だけで笑いを浮かべて彼は言う。

「それはこちらも同じですよ。夜間活動型の方とばかり思っていました」
彼が、ほんの少しだけ苦笑を浮かべる。
厭味には厭味で対抗するに限ります。何しろ、こんな面白い顔が見られるのですから。
…っと、あまり長話が過ぎてもいけません。
「今日はどういったご用件で?」
さっさと本題に入りましょう。帰ってから叱られるのは、あまり気分の良いものではありませんからね。
「見かけたから声を掛けただけだ。─その様子だとお遣いの帰りか」


……………。

あっさりと言い放ちましたね?しかも、何気に楽しそうですこの人。
そうですか、暇で散歩している訳ではないと承知の上での狼藉ですか。
…今一瞬、ちょっとだけムッとしましたよ?
ムッとしたので、

「よくお判りですね。そんな訳で、道草を食う暇はあまりないんです」

笑顔の裏に、さり気に厭味など混ぜてみました。

「働き者で結構な事だ」
棘入りの言葉を軽く受け流した皮肉。
ええ、そうですよ。『お仕事』ですからね。
見て解るとおり私は、結構真面目さんなんです。
解って頂けたようでしたので、そろそろ立ち去ろうかと思った…の、ですが……。
…こちらをじっと見つめる彼の視線に、気づいてしまいました…。

「──何です?」
小首を傾げて聞いてみる。
本当に、何なんでしょう?
…何だか、表情が悲しげにも見えるのですが…。


「そんなに大事なら、早いとこ奴の為に死んでやる事だ」


………………は?

いきなり何を言い出すんでしょう、この人。
一瞬、本気で耳を疑ってしまいましたよ?

「奴の心にアンタの存在を残すには、他に手が無い」
──どうやら、冗談を言っている感じではないようです。
…目が、本気(マジ)でした。


「…不躾に何です?第一、仮に──」
「──他の誰がそうしたところで、あの男は顔色一つ変えやしない。──だが、アンタだけは違う」
否定しようとした私の言葉に続けるように、彼は言った。
やや呆気に取られる私を尻目に、尚も言葉を繋ぐ。


「もしもアンタが奴の為に死ねば、奴は永遠にアンタのものだ」
思いもよらぬ一言。
予想だにしなかったその言葉に、頭が軽い混乱を起こす。


──彼は、何を、言っているのでしょう?


一瞬の混線。
すぐに、脳内がクリアな状態へと回復する。


「──何を言っているんですか?」
発した声に、よどみはなかった。
頭も気分も、驚くほどすっきりとしている。

 ──まだ、大丈夫。

彼の目つきが一瞬、悲しみとも取れる色に染まり、そして再び挑むような視線に変わる。
「─アンタにも解っている筈だ」
私は、くすりと小さく笑った。
「ありえませんよ。──それに」


…解って、いるのですよ。──意地悪な狼さん。
貴方が私に何をさせたいのかは、何となくね。
───でも。


「生憎ですが、私はそこまでおめでたいようには出来ていませんよ」
言って、にっこりと特上スマイル。
「…いつかアンタは、俺に"その方法"を聞いておいた事を感謝する事になる。──必ずだ」
その言葉に、"負け惜しみ"の響きはなかった。
予言めいた口ぶり。染み込んでくるような声。
─そんなもので私を唆すつもりだとしたら、全く以って甘いとしか言い様がありません。


自分の立場くらいは、弁えているつもりですよ?
─無論、自分の存在がどの程度のものか、も。
そうでなければ。
"彼"の傍になど、いられる筈もないでしょう?


「赤ずきんを騙そうと思ったら、おばあさんに変装くらいはして見せないと無理ですよ?」
「あの男に化けてお前さんに甘い言葉を掛けろと?ぞっとせんな」
苦笑交じりに吐き出された一言。

「あら、甘い言葉を吐いている自覚はおありなんですね?」
あまりに無防備な物言いだったもので、つい突っ込んでしまいました。

「──伸るか反るかはそちら次第だ」
おや、やはりこの程度では動じませんか。
けれど、同じ事です──私にとっては。

「…もっとも、無駄ですよ?どんなに巧く化けて見せても」
「最近の赤ずきんは鼻も効くのか」
「大切なおばあさんの匂いは、ちゃんと覚えているんです」
「そいつは手強いな」
「お褒めに預かりまして」


世間話でもするかのように、滑らかに繋がれる会話。
晴れた空。心地よい風。行き交う人々の笑い声。
なんて、あたたかい情景だろう。
他愛のない立ち話をする知り合い同士。
今の私たちはきっと、傍目にはそんな風に映るに違いない。

けれど、楽しい時間は長くは続かない。
空は、永遠に青いままではいられない。

それは自然の理。世界の定め。


ぽつり、と。
鼻先に冷たい感触。


「──降ってきましたねぇ」
「──降ってきたな」

最初、グラスの縁から零れ落ちた滴ほどであったそれは。
僅か数秒の沈黙の間に、無数の真珠の欠片となって降り注ぐ。


「念のため、持ってきた甲斐がありました」
腕を背中に回し、手に取ったそれをばさり、と眼前で広げる。
赤ずきんと狼の間を阻む、一枚の黒。
一瞬の後、伸ばした腕をす、と曲げて引き寄せる。

腕と共に引き寄せたそれを右肩で支え、顔を上げると。
「準備の良い事で」
狼さんが、呆れたように笑っていました。

「風邪をひいては困りますから。こう見えて、さほど暇でもないもので」
狼さんと違って、という言葉は敢えて飲み込んで。
赤ずきんは、一刻も早くおばあさんのところへ行かなければならないのです。
「では。失礼します」
深々と礼をして回れ右。

狼さんは動きません。…流石に、これ以上引き止める気もないようですね。
2・3歩進み、ふと思いついて立ち止まる。
そのままの姿勢で、私の背中を見送る狼さんにも聞こえるくらいの声で呟く。


「──彼は、そんなに弱い人ではありませんよ」



雨音だけが、響く。
答えがないのを確認して、振り返らずに再び歩き出す。


「───解らんさ。…"人間"というやつは」



遠くから声が追い掛けた気がして振り返る。
狼さんの姿は、そこにはなかった。
















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