「死んだわ」

それが、俺が最初に聞いたヤツの声だった。









『仮面・4/昔話』









「た・い・け・い」

後頭部から突き抜けるような澄んだアルトボイスが、寝不足気味の脳に響いた。
目線だけで振り返ると、ヤツがスキップで俺の真横に追いついたところだった。

「何朝っぱらから浮かれてやがる。気味が悪い」
「そういう大兄は、今朝は何やらアンニュイですね?怖い夢でも見ましたか?」


斜め下から覗き込む、一対の瞳。
真っ直ぐに見つめるその視線に、『無垢』だの『真実』だのを視る者がもしもいるなら、そいつはとんだ節穴の持ち主だ。


「…無駄口叩かねぇと居られないくらい暇か。仕事なら幾らでも余ってるぞ」
もっとも、それを『節穴』だと言い切れるのは、コイツを知ってる人間の中では俺くらいなものだろうが。

藍色の瞳から目を逸らさずに見下ろす。



見詰め合う事数秒後、長い睫毛がすっと伏せられた。そして音もなく一歩、俺の側から後退する。
この行動が何を意味するのか、次にコイツが言う言葉が何なのか。
それが手に取るように解るのも、きっと俺くらいなものだ。

「─…触らぬ神に祟りなし、ですね。雷が落ちる前に、『お仕事』へ向かうとします」

にっこりと微笑んだ唇に人差し指を当て、いたずらが見つかった子供のように吐き出された、その言葉は。
傍から見れば大層呑気な響きを含んだそれなのだろうが、生憎と俺の耳は特別製だ。
─…主に、コイツに関しては。


「おい」
声をかけると、先程と同じくスキップで去って行く後姿が振り向いた。

「無駄に時間を掛けるなよ。仕事は掃いて捨てる程余ってんだ」

ヤツはじ、っと俺の言葉が終わるのを待ち、そして。
「…心得ております」


特上の『仮面』でそう言い残すと、鼻歌交じりに去って行った。



途中すれ違った者が、呆れた顔や苦笑交じりの顔で奴を振り返る。

「お、ラナじゃねえか。…相変わらず能天気だな、アイツは」
「ははは、うらやましいこって。俺にも『幸せ』とやらを分けて欲しいもんだ」



野次を意に介する素振りもなく、黒ずくめの後姿は徐々に小さくなり、やがて俺の視界から消えた。




「──…ち」
思わず、ぐしゃりと髪を掻き混ぜる。
「…………馬鹿が」
口の中だけで呟いた音は誰にも聞かれる事なく、朝の廊下に掻き消えた。





















初めて見た時、奴は12歳かそこらの餓鬼だった。
部下達が俺の目の前に、後ろ手に縛り上げたそいつを差し出した時、部屋中に嗅ぎ慣れた匂いが立ち込めた。

──鼻を突く、血の匂い。

手前のものだか獲物のそれだかつかないほどの量の赤黒い染みが、奴の全身にこびり付いていた。
ところどころ引き裂かれた衣服の隙間からは、生傷だらけの白い肌が露わになっている。


部下が下がったのを確認すると、俺は黙って奴に視線を合わせた。
手足の自由を奪われ硬い床に転がされたままのそれは、どこか焦点の合っていない眼球でこちら─正確には俺の居る辺りの『空間』─をじっと見ていた。
感情の見えない瞳。だが、只の人形のそれとは異なる、ある確固たる一つの『意思』を秘めた瞳。

──自分以外の何者の介入をも許さぬ・・・この世界から己を隔絶する意思に満ちた瞳(モノ)。


「──・・・フッ」
思わず、口から笑いが漏れた。
全く思わぬところで、とんでもない拾い物をするものだ。
我知らず口の端を上げると、俺はもう一度奴の瞳を見据えた。
「─リィナ、と言ったか」
聞き及んだ名を口に出す。
奴はぴくりとも表情を崩さぬまま、俺の目を正面からじっと見てただ一言、ぽつりと言った。



「死んだわ」



初めて聞いたその声はあまりにも抑揚に乏しく、それ故に一際澄んだ音を薄暗い空間に響かせた。
何がだ、という俺の無言の問い掛けを察したのか、奴はもう一度血濡れの唇を薄く開いた。
「リィナは死んだ」
おかしな事を言う。
俺の目の前に在るのは、確かにリィナと言う名の人間であるはずだ。それは間違いない。

「──ほぉ」
俺は体を屈め、見上げる恰好の奴の高さに視線を合わせるように近づいた。
小さな顎に手を掛け、上を向かせる。
「なら、これは何だ」

正面からぶつかる視線。
半端な者であれば背筋が凍るような目付きで、奴の両の目が初めて俺の顔に焦点を結んだように見えた。

「“リィナじゃない何か”よ。リィナは、死んだ」
身内ですらまず見据えようとはしない俺の目を、俺の半分も生きちゃいないようなこの娘は真っ直ぐ睨み付けた。


「───くッ・・・はっははは」
俺は思い切り笑い声を上げた。
奴はそれにすら動じる事無く、ただじっとその二つの珠で俺を見ていた。
「なるほど…だが、名前がないのは不便だな」
横目でちら、と見下ろす。
奴がほんの少しだけ、瞳に疑問の色を浮かべた。
初めて知る、奴の『表情』だった。

「別に…。そんなもの、無くても困らないわ」
睨む事をやめた奴の顔は、ようやく年相応に近づいて見えた。
「俺が困る。名無しなんざ、呼びづらくて適わんな」
顔も見ずに答え、益々判らない、とでも言いたげな奴の前にナイフを転がす。



「ラナ」



口を器用に使って手足の縄を切り終えた奴が、視線をこちらへ向けた。
その顎を掴み、目線を合わせる。


「今この瞬間から、お前は『ラナ』……俺の部下(モノ)だ」


暫く無表情のまま俺を見ていたそいつは、やがて………その唇を、笑みの形に歪めた。
白い肌に差した赤が、月明かりにやけに映えて見えた。




















「…たーいけーい」
ふいに、耳元に掛かった生暖かい感触。

「………遊んでる暇があるなら、さっさと次にかかりやがれ」
睨み付けつつ振り返ると、もう一息吹きかけようとした格好のラナと目が合った。


「だって大兄ってば、呼んでもお返事してくれないんですもん」
「だからって気色悪い真似するんじゃねえ」
悪びれる素振りもない奴をもう一度睨むと、その言い方はあんまりです。と言って頬を膨らませて見せた。

「──…フッ」
「あっ、何がおかしいんですか?!もう、酷いんだから」
無意識に笑みが零れていたらしい。
目聡く見つけたラナは、眉根を寄せてこちらを見上げてきた。


「間抜け面で笑わせたのは手前だろうが」

紙面に目を通しながら答えた言葉に、詰め寄らんばかりに肩を怒らせるラナ。
だが、ふと何かに気づいたように頬の筋肉を緩めた。

「そういえば、大兄がぼーっとしてるなんて、珍しいですね。お体は具合良さそうですし……」
「手前ほどじゃないがな」
「─何か、考え事でも?」

ずい、と。見慣れた顔が下から覗き込んだ。





「ラナ」






呼べば。





「はい?」





答える、間抜け面。







「次はこいつだ。さっさと行って来い」
「…あまり人使い荒いと、嫌われますよ?」
ばさり、と紙面を眼前に突き出してやれば、多少の嫌味を含んだ声が返す。

「ご忠告痛み入るな。で、行くのか行かねえのか」
興味もなさげに突き返すと、行って参りますとも。と、いつもの声が答えた。



「で」
戸口まで行ったところでラナが、問い掛けながら振り返る。
「何を物思いに耽ってらしたんです?」
聞きたいなぁ、と笑顔で強請るラナに、俺は自嘲気味に口の端を吊り上げた。





「───昔話だ。…ただの、な」




















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