3.胎動
それは、決して消える事のない、呪わしい記憶。
幼いソフィアにできた事は、何も無かった。
かけがえの無い何もかもが斬り裂かれ、打ち砕かれ、蹂躙されてゆく光景を、麻痺したように見つめるしか無かった。
程無く血の暴風が止んだ。
漆黒の騎士は、自らが築いた屍山血河を無感動に一瞥した。
(殺される)
その時、初めてそう思った。
動けなかった。膝から下の感覚がまるで無かった。
騎士がソフィアを見据えた。視線が絡み合った。
燃える様な、それでいて暗い光を放つ黄金の瞳。眼を逸らした瞬間に、壊されてしまいそうな気がした。
「──憎いか」
抑揚に乏しい低い声が響いた。
(憎い…?)
凍りついた心の奥で、何かが膨れ上がるのを感じた。重く、熱を帯びた、得体の知れない何か。
胸が苦しい。
上手く息ができない。
これが、「憎い」という事なのだろうか。判らなかった。
「──ならば、追って来るがいい」
騎士は踵を返した。後姿が、闇に溶け込むように薄れて消えた。
「──ソフィア殿?」
涼やかな女の声が、ソフィアを記憶の泥土から引き戻した。
気遣わしげに覗き込む瞳も、白皙を縁取る髪も、肉感的な肢体を包むドレスも、全てが闇と同じ色をしていた。
「…ああ。なんでもない」
ソフィアはさりげなく視線を逸らした。テーブルの上の金貨が視界に入った。
徒歩ならば、今居る街から一週間はかかる、アルスタットまでの道程。その道中の護衛を持ち掛けられていた。
「──それにしても、酔狂だな」
金貨に目を奪われたふりを続けながら、ソフィアは肩を竦めた。
「金貨2枚に釣り合う仕事じゃない。第一、傭兵など他に幾らでもいるだろうに」
前金として金貨1枚。無事に到着すれば更に金貨1枚。一週間の護衛の対価としては、破格の報酬だ。ソフィアならずとも、浮かれるのを通り越して疑念を抱かざるを得ない金額だった。
「──いいえ」
だが、黒い女は静かに首を振り、ソフィアの瞳を正面から覗き込んだ。
「貴女ほどの方は、他にございませぬ」
艶やかな唇が綻んだ。惹き込まれそうになる程、蠱惑的な微笑だった。
目眩に似た感覚に襲われ、ソフィアは慌てて視線を外した。
「…悪いが、詳しい道は知らん。その辺りは自分で何とかしてくれ」
意識するより先に、言葉が零れ落ちていた。
「仰せのままに」
女は、ひどく満足気に微笑んだ。
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