「おじさん、頼んでたもの出来てる?」
厨房の入り口から聞こえた声に、主人は作業の手を止めて振り返った。
「あぁ、嬢ちゃん。もうすぐ出来るとこさ。湯加減はどうだったい?」
立っていたのは部屋着姿のサルティで、主人の問いに、肩に掛かった濡れ髪を軽くかきあげた。
「ばっちり。ちゃんとしたお風呂なんて久しぶりだから、ホント気持ち良かった。ありがと」
「ははは。まぁ、旅の人はどうしても、なぁ」
風呂一つでここまで感謝されるのも珍しい。少女の笑顔に、主人は穏やかに微笑んだ。

「…ほい。出来たよ、嬢ちゃん。お待たせ」
「悪いわね、余分な仕事頼んじゃって」
渡された盆を受け取りながら、サルティは主人に詫びた。
なに、いいさ。と言って、主人が気のいい顔を向ける。
「余分な材料費がかかってないだけ、大した手間でもないさ。さ、持ってってやんな。厩はあっち」
「ありがと!」
最後にもう一度笑顔を見せるとサルティは、主人の指差した方向に向かって小走りに駆けた。








「…998、999、1000!」
荒い息に混じって、千の回数を告げる声が厩に一際大きく響いた。
数え終わると同時にどさり、と藁の上に胡坐を掻く。
は、と一つ息を吐いたハラルドの頭に、ばさりとタオルが掛けられた。

「おつかれさま。これも、はい」
顔を上げると、連れの少女が目の前に立っていた。
差し出された水を、礼とも呼吸ともつかない返事とともに受け取ると、ハラルドは一息でそれを飲み干した。
ごくり、と音を立てて喉を通る潤いを感じ、ようやく本来の声を取り戻す。
「…ありがとう。生き返った」
そこでようやく、少女の今の状態に気付く。
「─…風呂上りにわざわざ、こんなところまで来る事なかったのに」
そう言うとハラルドは、昼間とは違う格好のサルティを見上げた。

初めて見る薄手の服はおそらく、宿が用意した寝間着だろう。
肩までの長さの黒髪は、濡れた所為で些か垂れ下がっている。
白い肌はほんのりと上気しており、馬の臭いに割り込むようにして、何か別の香りが汗ばんだ鼻に届いた。
それが彼女の身体から立ち上る石鹸の匂いだと気付き、ハラルドは思わず紅くなった顔を背けた。

「だって、まだ食べてなかったでしょ。夕飯」
ハラルドの心中に気付いた様子もなく、サルティは持ってきた盆を差し出した。
温め直したばかりのスープの匂いが、空っぽの胃を刺激する。
慌てて立ち上がり、ハラルドは盆を受け取った。
「あ…ありがとう。悪いな」
今しがたの己の胸中がどうにも後ろめたく、発した声が僅かにどもる。
ちらり、と目の前の人物を窺えば、それすら意に介した様子もない。彼女の鈍感さもこういう場面では助かると、ハラルドは密かに胸を撫で下ろした。

「だってさー、やっぱ…悪いな、って」
ぽつり、と呟かれた一言に、ハラルドは何の事だか解らずに首を傾げた。
互いに立ち上がった状態では頭一つ分下にあるサルティの瞳が、何やらバツが悪そうにハラルドを見上げている。
「幾ら一部屋しか取れなかったからって、いつもハラルドばっかりこんなとこで…」
ハラルドは、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「…サルティを外に寝かせる訳にはいかないだろう」
至極当然、と言った顔で答えられると、罪悪感を感じた自分が馬鹿らしいような気もする。
どこまでも騎士道に則ったこの青年と、本当に自分は一緒に旅をしていてもいいのか、という思いに囚われ、サルティはうーん、と唸った。
「………何だ?」
怪訝そうに見下ろすハラルドに、サルティは小さく溜息を吐いた。
「…ん、いや。何でもない。ハラルドは紳士だもんね」


伊達にこれまで、女の身一つで旅を続けてきた訳ではない。
道連れの他人と同じ部屋で寝るなど、金に余裕がない一人旅では当然の事だと思っていた。たとえ、その相手が男であろうと。
或いは気にするべきなのかも知れないが、自分は女性扱いに値するほどか弱い人間でもないと、サルティは思っていた。
だからなのだ。
彼のこの、万人を隔てる事無き紳士的振る舞いに、時折居心地の悪さにも似た何かを感じてしまう。
だが、紳士であると同時に頭も固そうなこの男は、幾ら言ったところで聞く耳も持たないだろう。
先程の溜息は、ようやく最近それが解った彼女なりの、諦めの表現だった。


「──調子がいい、ってだけかも知れないけどな」
ふいに、頭の上から降ってきた自嘲気味の声。サルティは声の主を見上げた。
「誰にでも、と言えば聴こえはいいが…」
「…?だってハラルドは、皆を守りたいって思ってるんでしょ?なら皆に優しいのは当然じゃない」
珍しい事を口にするハラルドに、思わずサルティは怪訝そうに眉を寄せた。

ふ、と。
ハラルドの口から、笑いともつかない音が漏れた。
「─…確かに、な」
そうよ、とサルティが肩を叩く。
「大事なものには、誰だって優しくなるもの。アンタの大事なものは、普通の人よりスケールが大きいってだけでしょ」
に、と笑うサルティに、ハラルドは一瞬、困ったような笑みを浮かべた。
「…そうでもないさ」
言って、目線を外しながら額を掻く。
「俺だって、ただの人間だ…聖人じゃない。──特別に大事なものだって、………ある」
その言葉に、サルティの大きな瞳が、更に大きく見開かれた。

「へぇー…。ハラルドにもそういう人、いるんだ」
「…あぁ………いる、よ」
目線は依然、外したままで。
呟くように答えたハラルドに意外だ、という眼を遠慮なく向けていたサルティは、やがて。
「───もし、さ」
俯くと、何かを思い出したかのように、言った。
「もし、その人が。傷つけられるような事があったら、ハラルドは………どうする?」

それは少女の、自分自身に対する問いかけでもあった。
嘗て一度、大切な人を奪われたとき。そのときは、只夢中でその相手と戦い、葬った。
その記憶は今も自分の胸を痛め、失ってしまった後悔は多分この先一生持ち続けるのだろうと思う。
そしてもし今、また失ってしまったら。


──私は自分を、保っていられるだろうか。





「──俺は、諦めない」
はっと、サルティは顔を上げた。
雲間から覗く月を、まるで睨みつけるかのように見上げたハラルドは、初めて見る貌をしていた。
それはまるで、自身に対する戒めにも似た。
「守るべき民も、共に戦う兵士達も、リアファーナも、………君も」
惹き付けられたように、サルティは目が離せなかった。
「俺の大切なもの全て、俺の守りたいもの全て。どんな事があろうとも……諦めない。決して、死なせない。─勿論、俺自身も」


暫く、金縛りにあったかのように立ちつくしていたサルティは、やがて。
何か憑き物が落ちたかのように、満足気に微笑んだ。
「うん………そう、ね」
晴れた雲間から完全にその貌を表した月の明かりが、彼女の笑顔を照らす。
ハラルドは、身体を彼女の真正面へと向け直した。
真っ直ぐ見下ろす視線に、不思議そうにサルティもその眼を見上げる。
「──俺は、」
その声は毅然として、けれど限りなく穏やかで、しかしその内に揺ぎ無い決意を秘めたような。
言いかけて、続きを言おうと開きかけたままの唇を、サルティは瞬きもせずに見つめた。




「─俺は……君を、死なせない」




射抜かれたように。
見開かれた薄紅色の瞳が、目の前の男をただ見つめていた。
「───約束する」
その、更に奥を見つめて。
ハラルドは、自分を映す二つの瞳に誓いを捧げた。




「────…あ、」
少女の口から、掠れた声が聴こえるまで。
その沈黙は、その間だけ刻という概念から外れてしまったようであった。
ようやく口を開いたサルティは、ハラルドの方を見たままであったが。
その頬は、風呂上りの先程よりも紅く染まっていた。
「─あたしが助かっても…ハラルドが死んじゃったら駄目なんだからね!」
「俺も、死なない。それもさっき言った」
苦し紛れにしか聴こえない返答は、いともあっさりと切り返されて。
微笑んで自分を見つめるハラルドに、サルティは彼の顔を指差したまま言葉を詰まらせた。

「…な……なら良し!」

くるり、と背を向けた彼女の表情は見えなかったけれど。
後ろから見ても解るくらい、その耳と首筋には赤が差していた。
そのまま歩き去って行く後姿に声を掛けるべきか悩んでいると、やがてぴたりと立ち止まった彼女が、顔半分だけで振り返った。
「…風邪…ひかないようにね」
「そっちもな。暖かくして寝るといい」
風呂上りの自分は棚に上げるサルティに、苦笑しつつ返す。
振り向いた横顔はまだ少し紅かったけれど、彼女は笑顔でハラルドの言葉に返した。








「─少しは、気付いて貰えたかな」
小走りに去って行く彼女が、宿に消えるまで見送って。
相変わらず照れ隠しが下手な想い人の背中に、ハラルドは思わず瞼を細めた。
同時に、やれやれ。と、やっと汗のひいた手で頭を掻く。
「幾ら猛将と謳われようと、肝心なところでこれではな」
自嘲めいた言葉を愛馬に洩らせば、澄んだ瞳と鼻を摺り寄せて来る。
その鼻筋を一撫でして、ハラルドは藁の上に身体を横たえた。
鈍い彼女のこと、顔を赤らめていたとは言え、きっと自分の伝えたい事の半分も、その心に伝わってはいないのだろう。

─せめてもう少し、ストレートに表現出来れば苦労はないのだろうが。

呟いて、直後に自分の言葉で顔が熱を帯びる。
回りくどいと言う事は自覚しているのだが、どうにも踏み切れないのだ。
それは所謂、“自信の欠如”という奴で。
「─戦場で殺されかかった時ですら、これほど怖くはなかったと言うのにな」
情けない自分に苦笑しながら、宿の方向へ寝返りをうった。
彼女の部屋の辺りを見上げれば、丁度明かりが消えたところで。


「───おやすみ」

聞こえるはずもない声を投げ掛ける。
丁度その頃想い人も自分の事を考えているなんて、思いもよらず。いつもより幾分穏やかな心持ちで、彼もその瞳を閉じた。







人より少し鈍い彼女と、鈍過ぎる彼。
そんな二人の関係が、先へ進むのは……もう少しだけ、先の話。

















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