「ちゃん」
聞き慣れた声に顔を上げると、目が合った石神さんはにっこりと笑い、ベンチの隣へ腰掛けた。
「また外で食ってんの?」
「はい。今日も天気がいいから」
答えると、ふうん、と石神さんは私の弁当箱を覗いた。
「それ、自分で作ってんの?」
「え?ええ、まあ」
と言っても、夕飯の残り物がメインですけどね、と苦笑すると、いやいや。と石神さんは感心したように言った。
「偉いねー」
「作ってくれる人がいないもので」
自嘲気味に返すと、それでも自分で作ってんだから偉いよ。と繰り返された。
嬉しいと同時に、自慢出来るほどの腕でもないので、素直に肯けない私がいる。
すると石神さんは何を思ったのか、
「偉い偉い」
と言いながら、私の頭をわしわしと撫でてきた。
「え、ちょ、あの」
「ん?何ちゃん」
「こ、子供じゃないんですから」
「知ってるよー。でも偉いから撫でちゃう」
「完璧子供扱いじゃないですかっ」
「そんなことないよー。ちゃんはかわいいなー」
「ちょ、やーめーてー下さいってば」
石神さんの手が、髪に触れてる。
そう意識するだけで、私の思考能力の8割くらいは停止してしまう。
多分顔は赤いのだろうが、構っている余裕はなかった。
必死に平静を装いつつ逃れようとするが、どの方向へ身体を捻っても石神さんはきっちりとついてくる。
どれくらいそうしていたのか、ひとしきりからかい終わると(あれはそれ以外の何者でもない)、石神さんはひょいと弁当箱の一角を指さした。
「あ、これ美味そう。食べていい?」
石神さんがさしたのは残り物の煮物で、こんなもので良ければどうぞ。と、頭を冷やしたいのもあって、私は弁当箱ごと差し出した。
ひょいぱく、と素早い手つきで石神さんの指が大根を攫って行く。
「うまいうまい」
そう言ってくれた言葉にお世辞の響きは感じられなくて、私は盛大にほっとして、乱れた髪を手櫛で直した。
「あ、そうそう。弁当と言えばさ」
唐突に、石神さんが切り出した。
「もし今晩空いてたら、ちょっと珍しいモン食いに行かない?」
ぱちくり、と私は思わず瞬きをした。
どの辺りが『弁当と言えば』なのだろう?
私の表情から察したのか、石神さんは悪い悪い、と片手を顔の前に出した。
「こないだの…って今日もか。弁当食わせて貰っちゃったでしょ。そのお詫び」
思いがけない提案に、私はぶんぶんと首を振る。
「いやいや、おかず一切れくらいでそんな」
「…というのは半分本音、半分は口実で、俺が食いに行きたいからってのもあるんだけど」
一人で行くのもつまんねえし、付き合ってくれたら嬉しいんだけどね、なんて断れよう筈もないことを言う石神さん。
そんな訳で、今日の終業後、二人でインド料理を食べに行くことになった。
case2.インド料理
『インド料理って、カレーですか?』
『カレーもだけど、ほらなんてったっけあの肉料理、えーと…カバブ?』
『…ケバブのことですか?』
『そう、それそれ。食ってみたいんだよね』
データを打ち込みながら、私の頭の隅ではお昼に交わした会話が過ぎっていた。
私はその石神さんの答えに、そのとき思わず吹き出してしまって。
『え、何々?どうかしたの』
『…だって…石神さん、こないだのラーメンもですけど、自分から行こうって言いながら、知らないとか…ふっ、ごめんなさい、おかしくっ、て…』
『だって食ったことねーもん。しょうがないっしょ。あ、まあラーメンは違うけど』
笑いながら答える私に、動じた様子もなく石神さんはけろりと言った。
「………駄目だ」
呟いて、キーを叩く手を止める。
芋づる式に、お弁当を摘んだときの石神さんの顔とか、撫でられた感触とかが蘇り、私は軽く頭を振った。
─ちょっと、頭冷やしに行こう。
「これ、広報に届けてきます」
そう告げて、午後一で届いたファイルの山を抱えて立ち上がる。
ああお願いね、という部長の声を聞き届けて、私は事務所を後にした。
「…さん。なんか、具合悪いです?」
「え?」
届け物が済むや、帰ろうとした私を有里ちゃんが覗き込んできた。
「な、なんで?」
当惑気味に問うと、だって、と有里ちゃんが続ける。
「顔、耳まで赤いですよ」
「ひぇっ!?」
指摘されて、思わず耳を触ると仄かに熱を帯びていた。
「風邪ですか?最近流行ってるらしいですし…無理しない方がいいですよ?」
「い、いや大丈夫!元気元気。何でもないの、何でも!うん。あはは…」
どもりつつも誤魔化してじゃあね、と言うと、有里ちゃんは思いっきり心配そうな顔で私を見ていた。
ふらり、と歩き出した足が少しだけよろける。
だって仕方ないでしょう。
お昼を石神さんと一緒に過ごしたってだけで顔から火が出る思いなのに、あんな顔とかあんな声とか見たり聞いたりしてしまっては。
それに──
自分の手をじっと見る。
あの時の手の熱が、思い起こされてしまってもう、どうにも出来ない。
とにもかくにも定時。
お先に失礼します、と言うと、今日は珍しく二つ返事で送り出された。
「風邪、流行ってるからね。ゆっくり休んで」
そんな部長の言葉に、あっと声が出そうになる。
…もしかしなくても、有里ちゃんが何か言ってくれたんじゃないだろうか。
「…ありがとうございます。お疲れ様でした」
嘘をついたようで心苦しいけど、今日はごめんなさい、有難く甘えさせて頂きます。
事務所を出て少し歩くと、ベンチに腰掛けていた私服の石神さんが、よ、と片手を上げた。
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