─みずのおとがする。
そう認識すると同時に、頬に当たる硬い感触では目を覚ました。
最初に目に入ったのは、さらさらとした白い床。砂だ。
次いで情報を認識しようとした矢先、先程の硬い感触が彼女の頬を滑った。
微かな痛みに、形の良い眉が顰められる。
「なんだろー、これ」
「十円キズつけちゃえ」
耳元で聞こえたあどけない声に、今度こその瞼が開かれた。
ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結び、二匹の生き物が自分を見つめているのを認識する。
白くて耳の長い方の生き物が、手に何か小さくて丸いものを持っていた。
─さっきの痛みはきっとこれだ。はおぼろげに理解した。
「…あの、」
は重い身体を持ち上げた。おぉ、と二匹が驚いてみせる。
「動いた」
「しゃべった」
心底意外そうな二匹の声に、何だと思われていたのだろうと思う。
どう反応して良いか解らず目線を泳がせると、ずいと二匹が顔を寄せた。
「ねーねー、おねーさん名前は?」
名前。
頭の中で反芻し、初めに浮かんだ言葉を口にする。
「………」
言った瞬間に口元を押さえる。
今発した単語以外の情報が、頭の中に何もない事実に気づいたのだ。
─どうして?
瞬間的な恐怖が彼女を襲う。
「どーしたの?」
下から覗き込む二匹の視線に、はっとは我に返った。
─とりあえず、落ち着いて事態を把握しよう。
頭の中が真っ白なのが却って幸いしたのか、自分でも不思議なほどは冷静だった。
「─ううん、何でもない。あなたたちは?」
微笑むと、安心したように二匹はから離れ、目の前で横一列に並んで互いを指差してみせた。
「こっちがエグチくん。で」
「こっちがナカムラくん」
「「よろしくね」」
ぺこり、と揃ってお辞儀する。
その様がどうにも可笑しくて、思わずは目を細めた。
ようやく場に柔らかい空気が流れ、顔を見合わせて笑う三人。
「─ところで、ここは……?」
ぐるりと辺りを見回して、が問う。
二匹はまたも揃って指を掲げると、得意げに答えて見せた。
「ここはパプワ島だよ」
──パプワ島…。
「……パプワ島…」
頭の中で一回、口に出してもう一回は反芻した。
何かが靄のかかった奥に引っかかっているのだが、上手く引き出せない。
「のおねーさんは、どこから来たの?」
再びを現実に引き戻したのは、エグチの問いかけだった。
一瞬目を合わせた後、困ったように苦笑する。
「もしかして、わからないの?」
ナカムラが確認する。が頷くと、二匹は顔を見合わせて何やら相談をし始めた。
「どーする?ナカムラくん」
「うーん…とりあえずパプワくんに知らせに行こうよ、エグチくん」
「そーだね、そーしよう!」
「あ……」
何を納得したのか、の止める間も無く、二匹はどこかへ走り去ってしまった。
待って、と言おうとした時には、既に彼らは豆粒程度の距離にまで遠ざかっていた。
追いかけてみようかとも思ったが、海水に浸かっていた所為か身体がだるく、思うように動かない。
諦めて短い溜め息を吐くと、は濡れた肢体を引き寄せて砂の上に腰を下ろした。
「………『どこから』…か」
落ち着いてもう一度頭の中身を検索してみても、出てくるのは先程口にした自分の名前と、十八という年齢だけ。
自分がどこから来たのか、昨日まで何をしていたのか、どこで生まれたのか。
一通り考えてみるが、答えは何一つとして得られない。
辺りを見回してみれば、砂浜の向こうにはざっと見るだけでも様々な植物が生えており、照りつける太陽は眩しい。
─確か、パプワ島と言っていた。
自分はここに何か目的があって来たのか、それともただ漂着しただけなのか、それすらも解らない。
流れ着いて来たと思われる方を見遣れば、青い海原が永遠に続いているように見えるだけだ。
「…私は………」
考えれば考えるほど底なしの奈落に落ちてゆくような感覚を覚え、は膝を抱えて俯いた。
───怖い。
自分が何者かすら解らない恐怖に襲われ、目尻に雫が溜まる。
…と、その時。
「………?」
足元で何やら乾いた音がして、は顔を上げた。
自分の座っている周囲をぐるりと囲むように、小枝が少しずつ積み重ねられて行く。
目にも止まらぬ速さで動いているようで、誰がやっているのかは解らない。何か嫌な予感が彼女の胸中を占めた。
「な、なに……?」
─ここにいてはいけない。
第六感にそう告げられ、とりあえず囲みの外へ出ようとが腰を上げた、そのとき。
「ファイヤー!」
「わぅん!」
やけに威勢の良い掛け声がしたと思うと、ぼっと言う擬音とともにの周囲は炎に包まれた。
「えぇーッ!?」
瞬く間に出口を奪った炎は徐々に勢いを増し、あっと言う間に彼女の足元にまで火が及ぶ。
「あっ、あつ、熱ッッ」
あまりの熱さに飛び跳ねて火の粉を避ける。
─ああ、私ここで焼け死ぬのかしら。
どこか呑気にそんなことを考えながら、は炎の中を跳ね回った。
死ぬ間際には走馬灯が駆け巡るというが、思い出す記憶すらないのは少し淋しい。
しかしそれにしても…
「……あっつーーーいッツ!!」
─…ざばあぁっ!
渾身の叫びを上げたの頭上から、大量の水が掛けられた。
ぷすぷす、という音を立てて周囲の炎も鎮火して行く。
─助かった…の?
全身水浸しになったが状況を飲み込めずにいると、背後から新しい声がした。
「こぉら、見知らぬヒトを火にくべちゃ駄目でしょッ」
─…この、声。
の心臓が、音を立てて跳ねた。
思考じゃない。
まるで、身体が記憶しているかのような感覚。
熱くなるほど、懐かしい何か。
「ナニを言う、キャンプファイヤーは歓迎の儀式だゾ」
「普通の人は死んじゃうでしょーがッ!まったく…」
背後で交わされる会話。
振り向こうとしたが、身体が動かなかった。
確かめたい、確かめたくない。
「…オイ、大丈夫だったか?アンタ」
先程の声が、今度は耳元で聞こえる。
身体中を何かが駆け巡る感覚を覚えながら、はゆっくりと振り返った。
「………あ……」
「あーあ、びしょびしょじゃねえか。悪ィな、火消すのが先だったもんで…」
バケツを手に持った黒髪の男が、申し訳なさそうにを見下ろしていた。
この男が、バケツの水で火を消してくれたのだろう。
「…あ、いえ。そんな…」
礼を言おうと見上げる。
支えるように差し出された彼の手を取ろうとした、瞬間。
──。
「───…あ」
脳裏に聞こえた、何時かの声。
それは、今聞いた目の前の男のそれと同じ。
黒い髪。
黒い瞳。
大きな手…───
「──?どうし……」
の瞳が大きく見開かれたのを見止めて、シンタローが首を傾げる。
ふらついた彼女の手を取ると、少女はそのまま意識を手放した。
「ぅわ…っと、オイ!?」
慌てて抱き止める。
視線を感じて振り返れば、非難するような視線とぶつかった。
「お…俺は何にもしてねーぞ!……タブン」
「シンタロー…」
「だ、大体お前らが、このコを火にかけたりすっからいけねーんだろ!?」
自分に非はない筈なのに、この目に見つめられるとどこか後ろめたい気になってしまうから不思議だ。
彼女を抱きかかえた格好のまま、シンタローは思いつく限りの抗議を試みた。
「チャッピー」
「わぅん!」
──がぶり。
「ごめんなすわぁいッ!」
「わかればよろしい。さっさとそいつを家まで運べ」
へーいへいへい。涙混じりにお決まりの返事を返すと、シンタローはを両手で抱え直した。
(しかし…)
改めて見てみると、腕の中の少女は変わった身なりをしていた。
艶やかな黒髪と黒い瞳からするに日系かとも思ったが、透けるように白い肌はその想像に似つかわしくない。
そして何より、彼女の身につけている衣服。
(変わった服だナ…まるで)
手の中を滑るような、絹に似た感触。
風に靡く裾は、羽のような軽さを感じさせる。
─まるで、昔話に出てくる羽衣みてーだ。
実物を見たことがあるわけでは勿論ないが、何となくシンタローはそう思った。
そして、彼女の首にかかっているもの…。
(これって…)
彼女の首に提げられている、赤い石。
自分が持ち出したあの石に、色と大きさこそ違えどよく似ている。
「…まさか、な」
振り払うかのように頭を振る。
この島に来てから想像を絶することばかり起きているとは言え、そんな偶然がそうそうあっては溜まったものではない。
「シンタロー、遅いぞ!早くせんかい」
「はーいはいはい」
前方を行く少年の諌める声に答えると、シンタローはもう一度、彼女を抱え直した。
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