しんと静まった帰り道。
順序良く砂を踏む音だけが、遠慮がちに響く。
は、一人帰路に着いていた。
「………星、だ」
見上げれば、そこは既に無数の星が埋め尽くすのみで、先程天を覆った大きな花の残り香はもうどこにもない。
視線を水平に戻すと、見慣れた灯りが目に入った。
「…もどって、きちゃった…」
「──そうか。記憶を…」
宴の後、から事情を聞いた守り神は、ただぽつりと呟いた。
合点がいった、という響きだった。
「…ヨッパライダー様は、私をご存知なんですか?」
不安に瞳を揺らしたが問う。守り神は、のっしりと巨体を屈め、柔らかい声音で応えた。
「──ああ。ワシはお前のことをよく知っておるとも」
目の前の少女を安心させるように、目を細め大きく頷く。
「っあの…──」
意を決したように開かれた唇は、音を続けることができない。
「……──ッ」
しばし守り神を見つめた後、行き場を失くした瞳が伏せられた。
「──や」
沈黙したの手を、岩のような掌がそっと掬う。
もう一方の腕で、守り神は東の方角を指し示した。
「ここから海岸線を、ずうっとあちらへ歩いて行った辺り…あの崖の麓に、小さな洞窟がある」
は、大きな指の先を見つめた。
「ワシに用があるときは、そこでワシを呼ぶといい。─いつでも、お前の問いに応えよう」
大きな掌が、そっとカミセの頭に被さった。
「─ヨッパライダーさま」
小さな呟きは、承諾の印。
もう一度笑うと、守り神は酒瓶片手に、鼻歌混じりで海へ還って行った。
「!」
呼びかけられた声に、意識が引き戻された。
顔を上げると、小走りに近づいてくる姿が見えた。
「……シンタローさん」
「っ…早かった、な」
傍まで来ると同時に、シンタローが息を吐き出す。
ほんの少しばかりではあるが、息を切らした彼を見るのは初めてだった。
「話……聞けたのか?」
遠慮気味な問いに、の身体が硬くなった。
「あ………その、」
「?」
必死に言い訳を探している自分に、嫌悪感が募る。
宴の後、ヨッパライダーに話を聞きに行くと言って、一人彼らと別れたのだ。
東の方角へ数十歩進んだところで、ふいに引き返してきてしまった。
あれだけ欲していたものが、目の前にあったというのに。
「あの…ヨッパライダー様も今日は随分と酔われていたし、またにしようかな、って」
やっとの事で用意した言葉には、わざとらしい作り笑顔が貼り付いた。
─これじゃ、またこの間までと同じだ。
刹那泣きたくなって、更に笑顔の上塗りをする。
「あ、あー。…そ、そうだよな。よく考えりゃ、そりゃそーだ。ははは」
そんな彼女に、気付かなかったのか否か。
シンタローはこちらもまた、己を誤魔化すように笑い飛ばした。
重ねるように、も笑ってみた。頬の筋肉は、上手くほぐせない。
「…いつでもいい、って言ってくださったし、…急ぐようなことでも、ないから…」
それは、次に来るであろう問いを恐れたがゆえの焦りからだった。
の口が、沈黙を避けるように早口に走る。
「──また、そのうち」
ぴたりと、シンタローの笑いが止んだ。
何かに弾かれたように、二つの黒い瞳がを見つめる。
「……?シン…」
「─早く行った方がいいんじゃねえのか?」
言って、シンタローは自身の口を覆った。
─何言ってんだ、俺?
「シンタローさん…?」
はっと我に返る。
が、不安げに彼を見ていた。
「あ、いや…その、」
咄嗟に言葉が繋げないことに、驚いたのはシンタロー自身だ。
頭の中で、思ったことを必死に整理する。
一呼吸置いて、よく通る声が発せられた。
「俺、前に“記憶なんてなくても”みたいなこと言ったけどさ…」
途切れがちの台詞を、の瞳がただじっと待つ。
「それは、が島の外から来たと思ってたからで…でも今日、ヨッパライダーの話聞いてさ。─…もし、」
仮定形の姿を借りた、半ば確信。
シンタローは、逸らしていた瞳をに向けた。
「もしが元々この島の者だったんなら、ちゃんと…思い出した方がいいんじゃねえのか?…お前のためにも、島の皆のためにも」
は、動かない。
漆黒の瞳には、今喋った男の顔が揺れている。
「…それにさ、ホラ」
誤魔化すように、シンタローが明るい声で付け足す。
「“そのうち”とか言ってっと、タイミング逃したりすんだろ?こういう事ってよ」
だからサ。シンタローはもう一度、笑って見せた。
「──…そう、だね…。うん、そうかも知れない」
俯いたが、視線を落としたままで答える。微かに震えた声で。
「あ、何ならパプワとでも一緒に行けばさ、話しやす…」
「─ううん、平気」
無理強いの形になってしまったかと気遣った提案は、先程よりもう少し聞き取りやすい声で遮られた。
「私の、問題だから……─一人で、平気」
顔を上げた彼女の表情が、一瞬泣き笑いの顔に見えた。
シンタローが認識した次の瞬間には、それは微笑みに塗り替えられていた。
「……そう、か」
そう答えるしかなかった。
の震えた声の理由、過敏に反応した己の心理。どちらも、今のシンタローには見えていなかったのだから。
「引き止めちまったな。中、入ろうぜ」
冷えちまうから、と。
極力明るく手招きする。
は、小さく首を横に振った。
「もう少し、風に当たりたいの」
その、困ったような笑い顔を。
“いつもの”彼女だ、と認識したことに、その時のシンタローは疑問を持たなかった。
或いは、それが彼の“見たかった現実”だったのかも知れない。
己の中にある“もの”の正体から、目を逸らすために。
「そっか。寒くならないうちに、家に入れよ」
“いつものように”笑って。
言い残すと、シンタローはパプワハウスへと入って行った。
──ぱたん。
扉の閉まる音。
の顔から、貼り付いていた笑顔が取れた。
「…………ッ…」
球面状の壁に背をもたせる。やがて、細い肢体がずるりと腰を落とした。
うずくまると、視界がぼやけた。
月に照らされぬよう、膝で覆い隠す。
かさり、と傍らで音がした。
見上げると、鉢植えの二人が心配そうに見つめている。
「─……皆には…ナイショ、です…よ…?」
茶化した筈の答えは、切れ切れに紡がれた。
気遣う二つの視線と目が合った瞬間に、堪えた雫が零れ落ちていた。
「──もう少しだけ…こうさせて、ください」
声を殺して流したそれは、の初めての涙だった。
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