人影が一つ、森を駆けていた。
降りしきる夕立は勢いを留める事無く、打ち付けるように山を濡らしていく。
その人影は頭部までマントで覆われており、顔は見えない。が、小柄な体格と決して大きくはない歩幅を見るに、女性であると思われた。

刹那。
雷鳴が一つ、轟いた。

「…っひゃ!」
マントから漏れたやや甲高い声は、まだ少女と言うに相応しいそれであった。
強まった雨足から逃れるかのように、影が走る速度を上げた。
歩幅こそ小さいその影は、しかし吹き抜ける風の如き速さで泥の地面を駆け抜ける。
やがて影は、視界の先に見つけた洞穴へと消えて行った。


「ふー…助かったぁ」
洞穴に入るや、影はフードを取り払い小さく頭を振った。滴が飛び散る。
マントの下から現れたのは、一人の少女であった。
肩先で揃えられた黒髪は水分を含んで額に張り付き、走ったためか白い肌はほんのりと赤みが差している。
「山の天気は変わりやすいって言うけど、いきなりなんだもん。参っちゃったよ」
『おどれがチンタラしとったからやろが』
独り言と思われた少女の呟きに、ふいにもう一つの声が答えた。
声は老年の男性のもののように聞こえるが、洞穴には少女の影しか見当たらない。
「何よッ!こっちは半日歩き通しだったのよ?ちょっとは疲れもするってもんじゃない」
声に反論しながら、少女は自身の右手を顔の前に翳した。中指に、少女の細い指にはやや不釣合いな大きさの、豪奢な指輪が収まっている。
『あれくらいでへばったんかいな。情けな〜』
「うっさい!アンタはあたしにくっついてるだけなんだから、そりゃ楽でしょーけどねぇ…」
少女は、指輪に向かって話しかけているように見えた。
声は何処から聞こえているのか、明確には判らない。あるいは、少女の脳裏に直接響いているものだろうか。
『だってワイ指輪やもん』
「かっわいくなーい!」
自身を『指輪』、と言ってのけたその声は、確かに少女の持つ指輪のものであった。
無論、俄かには信じがたい話ではあるだろうが…。



指輪は『鳳』という名を持っていた。あるいは、属性とでも言うべきか。
──“選帝侯の指輪”。
ハイデルランドの七大選帝侯の証とされる、クーアフュルスター・リング。その内、フェルゲンラント・プファルツ方伯ギュスターヴがみずからの指輪としたのがこの“鳳の指輪”である。
この指輪はギュスターヴの提案により、常に彼以外の者の手にある運命の元に置かれている。そして同時にギュスターヴは、いかなる者であろうと、この指輪を持つ者を彼の全権代理人とする事を明言したのである。
またこの指輪は、選帝侯の七つの指輪の中でも取り分け特殊なもので、“自ら”主人を選ぶらしい。不慮の事故によって失われる事があったとしても、主人が存命のうちはその手に必ず戻ってくるというのである。そして主人が死ねば、指輪は新しい主を求めて再び彷徨う。
選帝侯の権利を我が物にせんと、多くの者がこれを手に入れようとし、手にした者はことごとく命の危険に晒された。
それゆえ、いつしかこの指輪は“死神の環”とも呼ばれるようになったと言われている。



この一見どこにでもいそうな少女が、何故彼(と呼んでいいものかは判らないが)を手にする事となったのか。
それはいずれ語られる物語であろうから、ここでは敢えて触れないでおく。
ともあれ、因果の導きによって少女は、この一風変わった指輪と道中をともにしているのである。


「止まないわねぇ…」
携帯用のランタンで明かりを点け、濡れたマントを広げながら少女はため息を吐いた。
外を見るが、雨足は未だ弱まる気配はない。
「下手したら今日は野宿…?」
最悪の場合を想像して思わずうえぇ、と声を漏らす。
野宿に慣れていない訳ではないが、雨に濡れて体力を消耗した今は、暖かい風呂と布団が恋しい。
『ま、その辺はお天道様のご機嫌次第やな』
大して興味もなさそうに指輪が呟く。
食事も布団も、ましてや風呂など微塵も必要としないこの指輪を、少女は恨めしそうに横目で睨んだ。
『せやけど自分、普段の行いが良ぅないから無理かもなぁ』
「またアンタはそーいう事を…!」
少女が思わず腕を振り上げた瞬間。
何事かに気づいたように、指輪が洞穴の入り口へと注意を向けた。
『…お』
「え?」
つられてそちらを見遣る少女。
雨音に紛れて、小さなではあるが別の音が聞こえる。

『誰か来よった』



















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