「え、所長…今、なんて?」
「聴こえんかったか?仕事や、し・ご・と」

目の前に座る髭面の男性が、気だるげに紫煙を吐き出した。
広いとはお世辞にも言えないオフィスは、しんと静まり返ったまま。
所員一同の視線が、悉くこちらに向けられている。
「仕事、って…私がですか?!」
「何や、不満か?まさかお前、仕事の選り好みができる立場やとでも思とんのちゃうやろな?」
「いや、そうじゃなくて、そのぅ…」
「ま、雑用が性に合うとるゆうんならええわ。悪かったな、わざわざ呼びつけて。ほなさいなら」
「あーっ待って!やりますやらせて下さいっっ!」
引き出しへと回れ右しかかった書類の束に慌てて手を伸ばす。
はっし、と捕まえると、周囲から控えめな拍手の音が聞こえた。


久米法律事務所は、代表弁護士1名、司法書士兼秘書1名、公認会計士2名、事務員7名(アルバイト含む)で構成されている。
新宿区某所の雑居ビルに間借りする小さな事務所だが、フットワークの軽さには定評がある、らしい。
その統括者─代表弁護士にして所長である沢崎慎と、今私は対峙している。
─『対峙』、という表現は適切でないかも知れない。何しろ、用件は仕事の授受なのだし。
ただし、法律関係の仕事ではない。
肩書こそパートタイムの事務員ではあるけれど、一般教養の法学概論をどうにかクリアした程度の知識しか持ち合わせない私は、法律実務に関してはほぼ役立たずだったりする。
では何故、所長が私を雇っているのかといえば─。

表向き法律事務所であるここは、裏でもう一つの稼業を営んでいる。
裏と言っても、法律に触れる仕事ではない。…いや、時々は触れる事もなくはないけれど、少なくともいきなり警察に踏みこまれて令状付きで家宅捜索されたり、道行く強面の方々からドスの利いた声で挨拶されたりするような仕事ではない。
正確に言うと─法的には存在しない、向こう側の世界の『仕事』。

私がたった今受けようとしているのは、その『仕事』についての説明なのだから、普通に考えれば『対峙』ではおかしい。
けれど、この場合は。
やっぱり『対峙』という言葉が実情に一番近い気がする。

広い肩と幅も厚みもある筋肉質の体躯。銀縁眼鏡と短い顎髭、刈り込んだ短髪。ほんの少しだけ着崩したダークスーツに、色彩感覚がおかしいんじゃないかと思えるような派手なシャツとネクタイ。どう贔屓目に見ても、弁護士には全く見えない。
では何に見えるか、と言えば。
歌舞伎町界隈を、強面の方々を引き連れ肩で風切って闊歩する怖いオジサマ。
…あまりにも様になり過ぎていて、弁護士としてそれはどうなんだろうと思うけど、いずれにせよその表現に相応しい威厳、と言うか威圧感も充分以上─率直に言えば些か過剰に持ち合わせている。
思わず『対峙』という言葉を使ってしまったのは、そういう所以だ。


「なんや。一応、やる気はあるんやないか」
「無い訳ないです!」
奪還した書類をひしと抱え込む。これだけは、何があっても手離す訳にはいかない。
「─さよか」
所長は、一瞬だけ眼鏡の奥の目を細めた。何気ない仕草だった。
「ま、ええわ。任務開始は明日の午後。打合せは済んどるから、早目に連絡入れる事」
口調と表情が業務用に切り替わり、お決まりの口上を並べ始めた。
アルバイトとして久米法律事務所に雇われて以来、幾度と無く目にした任務言い渡しの『儀式』。
ずっと眺めていて、憧れ続けてきた光景に、今はじめて手が届いている。
「解っとるやろうが、『準備』忘れんと行けよ。不明点は俺か槇依にその都度聞くように。以上、何か質問は?」
「…あ、えっと。あの…」
「何や」
「仕事自体とは、直接関係ないんですけど…」
「ん。言うてみ?」
関係ない、という単語を聞いて、所長は表情を普段使いのそれに戻した。

「…なんで、私なんですか…?」

任務内容は、対象の護衛。
事情次第の程度問題には違いないのだろうけれど、経験不足のアルバイト風情が独りで請け負うにしては、些か荷が勝ちすぎるようにも思える。─自分で言うのは何だか悲しいけど。
だからと言って、辞退する気は毛頭無い。…無いんだけれど。
所内のベテラン勢を差し置いてまで抜擢された所以を、差しあたって聞いておきたかったのだ。
そこには初めての単独任務に対する不安と、そして恐らく、単純な好奇心というものも多少は混在していた。
そんな私の内心を見て取ったのか、所長は椅子から腰を浮かせ、わざわざ私と近い位置に目線を合わせた。
「まぁ、ナンや。話せば長くなるんやけどな…」
溜め息混じりに、所長は語り出した。
思わず、ごくり、と唾を飲む。
「まず、槇依。アレはウチの大事な秘書や。外に出す訳にいかん」
「はい」
島津オヤジ は今ちょっと、九州に行っとる。帰って来た後も、また別の仕事があってな」
「…はい」
「ヴェルには俺の方から仕事をして貰うとる。それも外せん」
「……それって…」
嫌な予感が加速度的に膨張する。
私の胸中などお構いなしに、所長はとどめの一言を吐き出した。
「お前しかおらんのやって。消去法でいくと、な」

………まあ。
前日になって言い渡された辺りで、大方予想はついていたのだけど。
ウチの人員不足も堂に入ってるなぁ、なんて思う一方、少しばかり切ない気分になったような気がしないでもない。
いや、前向きに考えよう。幾ら『致し方なく』とはいえ、全く力量不足だったら指名はされないはず。
…駄目だ。我ながらかなり無理がある。
ひっそり肩を落とす私にやっぱりお構いなしで、所長の言葉が被せられた。
「そんな訳やから、すまんが期間中は学校休んでくれ」
「…え?」
「『え?』やあれへんやろが。お前が講義に出たら、その間誰が対象を護衛すんねん」
「あ」
おっしゃるとおり、返す言葉も御座いません。
ただ…。
手帳を取り出し、スケジュールを確認する。
明後日の特別講義。『多次元宇宙論の解釈』…これ、聞きたかったんだけどなぁ…。
今度こそがっくりと垂れた私の肩を、所長がぽんと叩く。
「大丈夫やって。欠席届はこっちで出しといたるからな」
…それってつまり、私が何を言っても無駄、って事じゃ…?
声には出さずとも、顔に出てしまったらしい。所長は、大仰に溜息を吐いて見せた。
「ま、どーしても講義に出たいっちゅうんなら仕方ない。涙を飲んで他の奴に仕事を回…」
「あー分かりました休みます!休めばいいんでしょう!?」
「『いいんでしょう』?」
「…休ませて頂きます…」
ハイ宜しい、と、所長は煙草を灰皿に押し付けた。
「この際やから教えといたるけどな」
「…ハイ…?」
「何かを得るためには、何かを諦めなアカンもんなんやって。一つ大人になったな」
「うぅ…」
そんな事で、大人になりたくない。
「以上、話終わり!」
私の胸中などお構いなしに、一方的に話は終わる。この強引さにも、もう慣れっこだ。…慣れっこなんだもん…。

「………」
デスクに戻り、溜め息を吐く。ふと、手に持っていた先程の書類に目がいった。
「悠鶴ちゃん」
背中からの声に振り向くと、槇依さんがうっとりするような笑顔で微笑んでいた。
「良かったね」
「…。─はい」
表情の選択に迷った挙句、苦笑混じりの笑顔で返す。
参った。この人には敵わない。
どんなに建前を並べてみたところで、溢れる気持ちは抑え切れなかったらしい。

実に半年もの間、楽しみにしていた特別講義。聴講したかった。それはもう是非とも、聴講したかった。
けれど。
知らず笑みが零れる。慌てて表情を引き締める。
去り際に、槇依さんが小さくて綺麗な笑みを零したのが聞こえた。省みて、自分でももう一度苦笑する。
何年越しに待ちに待った、『仕事』。結局のところ、それに勝るものなどないのだ。
資料の最初のページ。何とはなしに顔写真に目が行った。
少しくたびれた、けれどどことなく上品な感じの男性が微笑んでいた。

「… 薬袋みない まこと ……」


任務開始まで、あと24時間。








 


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